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「嫌いな人との接し方のコツは? 苦手だと思う理由や嫌われる人の特徴を紹介」というニュース報道に際して(西暦2023年5月16日記載)


例えば、彼ら彼女らにおいては、自身が、ヒトであること以前に、自身の性自認が第一義として来る。「セクシスト」という、彼ら彼女らに対する呼称は、決してセックスの行為にかまける(だけの)生き物という意味合いを持たせているのではない。性格という定義の精神医学上の位置付けについては私は知らぬが、私は彼らの素行を性格などという一連の定義に比準させる気は無い。彼らは、セクシストとしての(その)社会性を、特定のカテゴリー内に持ち込んだ、という事に過ぎない。欧米由来の男性原理的なものと云われるその主義は、生殖の本能にまつわるご都合主義でしかなかった。仮にそれが近似的なものであれ、社会が言語であるという場合、それは動態的であり、その「持ち込み」「持ち込ませ」が、自体的に社会(構造)的である。欧米人の言語使用性の高さは、虚無主義的な社会構造との闘争に基づくものであり、毒をもって毒を制すということにおいて、それは、例えば、音楽的ですらある。そこへ来て、表現の無い調べは、生物(学)的である。かつて、ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士は、「貴方は何故生まれたのか?」と問われ、「自分の両親が性交したからだ」と答えたそうだが、そういったことを考えると、ヒトは社会から生物として生まれたのではないか?残念ながら、それは、私にとって少々辛いところの、虚無主義的な欲動でしかないが、(それは個人主義的であり)、セックスが最上のコミュニケーションと云われる由縁を考えると、そういうことだろう。男性は外へ出て働き、女性は家庭を守る、ということがそもそも是認されないことになる。男性原理や女性原理といったことが、そもそもの矛盾なのである。ジェンダーイクオリティといったものは、存在し得ないだろう。逆説的に、それが真の(に)ジェンダーイクオリティなのである。

……ヒトにおける問題は、結局、人間関係のそれに帰着するという主張をする人間達も居るが、彼らにとっては、科学技術の進歩や流布そして社会制度の進展は努力偏重の産物でしかないという事である。彼らは、何かを勘違いしている。確かに、人間関係における成功は結婚という「ゴールイン」をはじめとしてヒトの幸せの一義かもしれない。しかし、「(手練手管によって)得られた」ものが、果たして、ヒトに幸せをもたらすものであろうか。支配の先の夢はそう甘いものではない。……「死を思え」とは、むしろ、ヒトラーに対する教訓ではなかったか。"Better watch yourself."と云っても彼には通じなかった様である。ちなみに、私は、精神医学上のそれの定義については殆ど知らないが、一人だけ「ヒトラーは演技性人格障害」と言った精神科医を知っている。

医学やそれに基づく医療技術の力は偉大である。私は自分の無能さに呆れるばかりである。これについて、一体私に何が出来るかというと、文章を書くことくらいである。クランケとして、医療上のデータを医療従事者の人々に提供することは出来るが、それが彼らにとって役立つものであるとは限らない。ちなみに、しかも、それは私の能動的行為によって為されるのではない。確かに、医療の現場における患者当人の自らの病気を治そうとする能動性に基づく(自発的)行為は、医療従事者に対する医療上のデータとしてカウントされているかもしれないが、それが努力偏重義務的観念に起因している時点で、データとしての妥当性がそれに存するかどうかには疑問符が付く。それは、もはや、単元的ではなく、目的概化している。戦場の生き物に関するデータはそれとして役に立たないというと語弊があるかもしれないが、彼らは(その意味で)「見せて」いる。彼らは、目的概化にまつわって、修正を要求している。つまり、(それは)、社会的な死荷重ということである。彼らのその「見せる」行為は、少なくとも医学的治療上、医療従事者にとって、役に立たないということである。スポーツ競技等の世界であれば、問題として別かもしれないが、(先述の)努力偏重義務的観念は自己破滅的に自己破壊をもたらすだけである。特に精神医学の世界で鑑みられる様に見受けられるが、医療従事者はそれをそれとして採用しないだろう。(よって)、それは、(彼らにおける)自虐でしかない。




「人間だけが言語を操れるのは「二足歩行」だから!?人類の驚きの進化の歴史とは?【人体の不思議】」というニュース報道に際して(西暦2023年10月5日記載)


アルバート・アインシュタイン氏の脳は一般的な成人男性のそれよりも小さかったのですね。私が読んだ何かの本によると、アルバート・アインシュタインはIQ175、ゲオルグ・フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ヘーゲルはIQ165、ジョン・スチュワート・ミルはIQ145、イマヌエル・カントはIQ135だそうです。私には、カントの哲学は理解できない。J・S・ミルの経済学に関する著作は読んだことがない(大学の時、経済学史の授業で多少触れたことがあるが…、よく覚えていない)。ヘーゲルの言っていることは、その意味内容からしてはということだが、かろうじてなんとなく分かる。アインシュタインの理論について、物理学のことは分からない。もちろん、当時にIQの指標もそれを計る試験も無かったでしょうから、ペーパーの試験ということであろうが別の何らかの計り方ということであろうが彼らの残した業績をもとに現代のもので演算もしくは類推してということでしょうけど。ところで、同じというか近しいもしくは似た様なヒト同士で交配していた方が人類という枠組みで捉えるところのカテゴリーの種の存続においてはヒトの生態上都合が良いのではないでしょうか?ちなみに、その「(同じというか)近しいもしくは似た様な」ということにおいて、他者に「判定」された社会的キャラクターが該当のカップルにおいて採用されるかというとそうではないでしょう。それは、当該カップルにおいて、(ヒトにおける性の欲動ということにおいて)真実ということではないでしょうか。IQテストについては、ネット上に転がっているものは、何処のどういった主催者に拠るものであるか不明な上に、そもそもその本式(?)のものである保証は何処にもありません(極論すれば、モニター上に何が映し出されるかでしかないということ)。大人は既に何らかの社会参画を果たしており、経験を多々積んでしまっているものであり、小児が受けるペーパーの試験で知能を計るということ自体がナンセンスです。テストの受験の回数を増やせばスコアが上がっていくのも同じことです。教育機関の入学試験でIQを計ることが出来ないのもまた然り(私の記憶が確かならば、日本国において教育機関への入学試験でのIQテストはそもそも法律で禁止されている)。知識の量イコール知能ではありません。特に、老人は脳も含めた体の働きが鈍っており、病気を患っているヒトもおり、それでは老人のIQが極端に低いということになってしまいます。アインシュタインが7歳児が受けるペーパーテストと同じものを受験してIQ175というスコアをたたき出しているというのではありません。私は思考盗聴について別所で書いておいたんですけど、現在は何らかの科学技術によってもっと複合的にヒトの知能を計ることが出来るのかもしれませんが、残念ながら私はそれについては具体的なことは殆ど知りません。

(西暦2022年9月16日11時45分記載)




「超難関・東京藝大に集う天才たち「自分はモーツァルトの生まれ変わり」上位互換がごまんといる場所」というニュース報道に際して(西暦2023年7月2日記載)

天才と秀才は区別されるべきでしょうが、確かに、モーツァルトは天才だったと言われてますね。彼は一筆書きの修正無しで頭から楽譜を書いていったらしいです。この記事で言及されている方も、きっと天才なのでしょう。


~コメントに返信~

すみません。「一筆書き」というのは私の表現のミスです。確かに、極限までかどうかは分かりませんが、脳内で考えてから筆を走らせていたでしょう。その意味で、私はモーツァルトは天才だったと評しました。




「「同じ世界に生きているけど全然違う世界を見ている」 IQ130「ギフテッド」の息子に母が言った「がんばらなくていいんだよ」の言葉」というニュース報道に際して(西暦2023年5月29日記載)

(生物としてのヒトにおいて)特定の脳機能aに基づく行動Aをとるヒトが存在し、(生物としてのヒトにおいて)特定の脳機能bに基づく行動Bをとるヒトが存在するとします。仮にそれが、そのヒトらにまつわる具体的行為(として)の表象であろうが、仮に例えば何らかのデバイスを利用してのリモートな(?)、現象であろうが、それらは総じてそのヒトらの表象(と見なされるもの)だということです。ヒトは脳機能そのもので他者とコミュニケーションを取るのではありません。このことにおいて、私の脳科学というものに対するスタンスは、具体的な医療行為としてのものでない精神医学の場合と同じです。

例えば、「ケーキを切れない非行少年たち」ということについて、もし本人にその技量があるのならば、円を横断する二つの直線でケーキを三等分することも出来ます。普通の三角形の切れはしを三つ作る切り方でも厳密に三等分されるというわけではありません。円というものの捉え方にもよりますが、本人たちの(おそらくは社会的な)こだわりといったものも無視されるわけにはいきません。そうしてこそ、被害者における被害の現状も解析され(おそらくは社会的に)理解されるに至るでしょう。

社会学者の宮台真司氏が襲撃された事件がありましたが、例えば、「格差と分断 崩れゆく世界の中で」という主題を取り上げるとなると、ちょっと疑問符が湧かずもがなといったところではありますが、確かに物理的暴力が振るわれて良い筋合いは無いですよね。「言論を封殺」ではなく「言論で封殺」する能力の無い人間を社会的に排斥する意義を宮台氏が語っておられるという一面は在るのかなとは思われます。そういうリスクテイキングを実践している方々においては、「言論で封殺」する威力とそれの可効範囲というのは、現代では、正の相関関係にあるものと思われます。残念ながら、この事件では、それが宮台氏に一点集中されて返ってきたということでしょう。

他者に自分の言うことをきかせることを第一義として当該の行動に及ぶ者は、もちろん、そうであるが故に該当の他者に相手にされません。彼らには、自己と他者が別個の者であるという認知が欠如しており、彼らは典型的な全体主義者であるということです(例えば、「総統」は例外として、国王や天皇の威厳は、これとは逆のものであり、行動より立場が先に来ている)。彼らにおいては、物事もしくは事物における具体的内容は二の次です。だから、そういう「二の次な具体的内容」が(彼らにおける「非本位性」と相まって)「本位的」となってしまっている、という「非本位性」が彼らにおいては散見されます。

近現代の資本主義は主に分業(化)によって成り立ってきたと言われています。……アメリカの人々、主にエリート層の人間達は、彼らを民主主義の敵と定め事に当たろうとしますが、アメリカにもそうでなかれと言わんばかりの人々も居ることがドナルド・トランプ氏の登場によって明るみに出た昨今、自分達の認知領域の物事のみにて「それ」を判断しようとしているのではないか?ということです。社会に存するのは、「民主主義の適格者」と銘打つことができる、良いヒトビトばかりではないのです。…人工知能が使用されたところで、ヒトが生きているという事実をヒトは目の当たりにすることになるでしょう。ヒトがヒトとして生きている限りにおいてということであり、「それ」を管理するのはいずれにしろヒトであるということです。

生物学的な自己同一性とは、該当対象である生物が無生物でなく存在するにおいて在るものでしょう。生物における繁殖能力に当該的に任された該当対象である生物における遺伝子の攪拌?それは違うでしょう。ところで、生物と無生物の境界はどのような形で有るのでしょう、という疑問がここで出てきます。……得られたデータと対象のobject(自体)は違うので、知の能の「存在の機」は存在する(ということが言える)でしょう。




「「刀で戦うなら江戸でよくね」『鬼滅の刃』の「大正時代」設定に疑問の声?」というニュース報道に際して(西暦2023年8月7日記載)


ああいう連中はね、戦前右翼→戦後左翼→左翼全共闘を経て、→ネット右翼。分かるでしょ?仮に大正の時代でもこういうのがウヨウヨ居たの。ああいうジジイババア共ももうすぐ居なくなる。




「「おぞましい」無抵抗の精神科患者もてあそび、笑っていた看護師たち 神出病院虐待事件、なぜ集団で黙認」というニュース報道に際して(西暦2023年6月29日記載)


敵は殺すだけ。攻撃しかしてこないのが敵です。逆に言うと、敵は攻撃しかしてこない。看護師が悪質な人間である場合、法の網をすり抜けていくらでもヤってくる。精神病患者のヒトっていうのは、そこのところがよく分かりにくい。教育がよく浸透してしまっているとも言える。学習能力に問題は無くても、やはり人格的には問題がある。

「拉致して、シャブ漬け」に対して一部の悪質な医療従事者は「シャブ漬けにして、拉致」するものであると形容すると分かりやすいでしょう、前者は農耕民族型の攻撃であり後者は狩猟民族型の攻撃であるということが言えます。「犯す(invade)」の上の位相に「殺す(absorb in)」というのがあり、その上の位相に「食う(erase)」というのがある。悪党共も食い物が無いと生きていけないからね。ということは、悪党共の食糧供給源を断ってしまえば良いということ。当の精神科医も含めて、悪質な人間なんてそこらじゅうにいくらでも居る。精神科医の先生達は「それ」を治そうとしてるわけ。

実際、精神科医にも、性欲信者とその権化フロイトブタみたいのが大勢居る。被害者である患者が望みもしない人間関係を強制的に当て付けて何処のアレだかわけわからんブタ女と交際させようとしたりする。で、そのブタ女は何を(で)どう鑑みてもヤクザだったりする。私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は、実際、神奈川県川崎市高津区下野毛にあるハートフル川崎病院というところでこれをやられました。この文章を書いている現在では、もう、その当時とは医師も様変わりして担当医も変わっていますけど。看護師も事務職員も全部入れ替えて欲しいよね、っていうところのもの。で、事件当時から8年経った現在でも、そのブタ女は未だにストーキングしてきたりする。本当に気持ちが悪い。現行の主治医である精神科医に訊いたところ、その「斡旋」を行った精神科医は未だに医師免許を持って医師の仕事を行っているらしい。さすが日本国凄いよね、と言いたくなる。ちなみに、もう一人その医師の後任の医師として出て来たヤクザ女が居る。この女には診察室内外でさんざん侮辱された。ある時、ジョニー・デップ氏主演の「ナインス・ゲート」という映画のDVDを買って観た。そうしたら、この女、女優として出演してデップ氏と普通に劇中でセックスしてんの。何だこのメスブタと思って、本当に気持ちが悪かった。こんな女に、こちらが精神病患者という形で、私は診察された。もはや、侮辱だとか名誉棄損だとか、そういうところを大きく通り越えている。この女も自宅近くの屋外でストーキングしてきたことがあった。同ハートフル川崎病院の医師を含めた職員や入院患者(をおそらく装った者)らがその様に自宅周辺の屋外でストーキングしてくることは多々ある。

精神科医のそれにしてもそうだが、精神科(精神病院)勤務の看護師の業務がきついというのであれば、そんなものはサッサと退職して他の職業を探せば良いということだろう。日本国では職業選択の自由は保障されている。確かに屋外で凄まじい大声で叫んだりその様な騒音を立てたりまた全裸で屋外へ飛び出すといった者も居るが、その様な者の案件を除いて、特別な対策を講じる必要があるというのであれば、それは医療サービス提供側において為される(べき)ものだろう。何時でも何処でも旧態依然とした社会主義のそれが通用すると思うな。現実問題解決能力の無い者や現実問題解決意識の無い者は、現在の中国においてすら排斥される。ブタ臭い被排斥者のそれを健全な他人様に擦り付けるな、汚臭がする。

アメリカのビジネスマンで、社会主義はヒトビトの労働意欲を(結果的に)削ぐと言っている人が居ますが、競争原理(で成り立つ社会)に資本主義を伝する能力があるでしょうか?民主主義は魅力的です。アメリカが、中後進国のヒトビトに、「自分達の」民主主義の魅力を認めさせる為には、資本主義の体制が必要であるという事を理解させねばならないということでしょう。それが民主主義の(に対する)教育として成り立つかどうかは、当該の中後進国のヒトビトによるでしょう。現に、武具を供与されているウクライナは隣国との戦争という形でそれを現象させています(これはロシアの言い分に偏っていることを私は認めます)。しかし、それこそが民主主義の本質ではないでしょうか?私は、第三世界の人々が、第三帝国ならぬ第三文明を創ってくれることを切に願っています。

悪徳を好しとするのは悪人ではなく善人の内の一部です。加害者が悪意をもって特定の他者に絡むのは加害者がその被害者に是認されていないと見做しているからです。悪人は他者の是認など求めていません。善悪を使い分けられる者は悪人であり、それは他者に対する純粋な攻撃でしょう。その被攻撃者が、自らが是認されていると見做しているか、もしくは自らが是認されていないと見做しているか、ということに攻撃の本質があるでしょう。

頭を使う必要の無い事に頭を使っていると、頭は確実に悪くなります。「必要は発明の母」という有名な諺があります。認識の対象として為され得ないものが認識の対象として見なされることはありません。ヒトは完全ではありません。常識の概念の存在も有ります。「自分だけこんな不幸な目に遭って、不公平だ!」ということを云うヒトが自らの理不尽さに義憤を覚えるのならば、それは一種のドーナツ化現象でしょう。「罪を憎んで人を憎まず」というのは正論でしょう。全ての人間が善良である訳ではありません。悪人ヨーゼフ・ゲッベルスはひたすらアドルフ・ヒトラーをtext化しました。これは私見ですが、おそらくヒトラーは最初から分かっていたでしょう。ゲッベルスはヒトラーを、食い物にして、「消した」のであるということです。

社会イコール法廷ではなく、技術立国としてのアメリカ以外の側面において、例えば社会工学上それは必要であるのだろうか?という問いは、ヒトラーの所業です。バケツの製造にその存在が象されるような人々の存在があろうか?という解釈は、エヴァ・ブラウンとの結婚を法曹がヒトラーに対して認めるという形が取られたことによって、(法廷は)「総統」を自称したヒトラーに単なる「総統」を明け渡しませんでした。

「男性はその生物学的素因からして女性を辱めるように出来ている」という主張をしている女性達が、例えばフランスに確かに居るようです。男性が本来的に邪魔だというのであれば、その様な女性たちは、男性の居ないところへ行ってもらうしかありません。私個人は、そういう女性達のことを、無視するつもりはありません。どこかアマゾネスみたいな集団を作ってもらえば良いのでは?と思います。それかヒトのオスを死滅させてヒトのメスだけの人間社会を作るかです。女性の中には、これを「離婚」である云々と捉える方々もいらっしゃる様ですが、その様な女性達は最初から男性とは殺し合いのはずです。彼女らはセクシストの女性であり、「(別に男性に頼まれてもいないのに)嫌々ながら男に対して股を開かなければならない性自認」の保持者であるということです。「必要は発明の母」ということと関して、社会不安に駆られ易いのが女性であり、科学的態度というのは女性由来のものであり(「理系女子」)、おそらく、人間社会ということに関して、男性には女性が必要であるということからして男性だけでは殺し合いになるでしょうが、女性だけでは殺し合いにならず上手い社会運営が為されることになるかもしれません。アラブ圏の女性で、「それが女性の幸せなの!」と男性との結婚を女性に勧める女性がいらっしゃったりしますが、それに被害感情を付随させるかどうかは本人の器量の問題でしょう。集団への帰属ということに関して、現在、彼女らは良かれ悪しかれ社会的にあぶり出されているということです。社会的にカテゴライズされる事で、それが(それで)吉と出るか凶と出るかは歴史が証明するでしょう。




「ススキノ切断遺体、瑠奈容疑者はホテル退出10分後には父と合流し車で逃走か」というニュース報道に際して(西暦2023年7月30日記載)


とうとう精神科医がやったか、って感じだよね。私は今まで十数人の精神科医(を名乗る人間)と関わって、あいつらの正体を概ね知ってるけど、少なくとも医師としてまともな者は一人も居なかった。現行で関わってるのが一番マシだけど、コイツも頭おかしい、というか気持ち悪い。あいつら、患者に対して何をやったと思う?奴らは、傷害や名誉棄損や窃盗では逮捕されないことになってるみたいだけど(笑)、殺人のものでは流石に捕まるみたいだな。

ちなみに、その私立病院の医師である現行で私が掛かっている精神科医が公共のお役所に提出する用の診断書に何を記載したと思う?ただ一行、「~(なんとかなんとかで)快癒。」、それだけ。しかも、役所で渡された所定の記入用紙をきちんと病院側に提出しているのに、筆跡を取られない為か何だか知らないがわざわざそれのコピー紙にワープロ文字でそのセリフがチョロっと記載されているだけ。役所の職員の人が「ちょっとコレ…」「ああ、あそこは…」って訝しげに語ってたよ。病院の名前はハートフル川崎病院。神奈川県川崎市高津区に存在する。これは障害年金用の診断書だけど、その診断書でちゃんと年金は下りてる。少なくともこの精神科医がどれだけバカ丸出しか、相手にされてないか、大爆笑ものだよね。ちなみに、私が「私のネット上での活動を知っているか?」と問うたら、「しらなぁ~い」と答えた。というわけで、私も奴が診察室内で毎回やらかしてくる名誉棄損の類に目をつぶるという形で、これを書いてる。ところで、私は今年西暦2023年の3月から、別の大学病院で内科の医師の先生に診てもらってる。そこでその内科の先生が抗うつ剤商品名パキシルと同じ効能のある医薬品を処方してくれている。もちろん精神科医が出す抗精神病薬なんか毎日は飲んでいないが、その抗うつ剤はきちんと毎日服薬している。おかげで調子も良い。そこのその内科の先生に、該当精神科医についての話をしたら、「(その精神科医の言っている事)本当かなあ?」と言っていた。もう呆れ果てて笑うことすら出来ないよね。

ちなみに、ハートフル川崎病院のその精神科医には、「精神科医の先生方は私Shinpei Sugiura(杉浦真平)を統合失調症と判定しているものであり、よってその判定の公的手続きを踏んでもらうかもしくは判定を取り消すかということを行っていただく為に精神科へ(は)通院するものです(公共の役所に提出する書類については内容の如何については問いませんしそもそもその内容に関与する法的な権限を私は持っていません)。売られた医薬品については服薬して調子が良くなればそのように服薬しますしそうでなければ服薬しません。」という旨をきちんと伝えてある。これは、現時点から数えて数年前の事だが、その時点では、該当精神科医は私のネット上での活動について知っていると診察室内にて私に対して答えた。精神科医というのがどういう連中だか分かるでしょ?私は絶対に精神科へ行くことはおすすめしない。




「なぜ精神科医の父親は犯行に加担してしまったのか?【首切断事件】容疑者宅やススキノのホテル付近には写真撮影に訪れる人も…」というニュース報道に際して(西暦2023年8月4日記載)


こんなものは、精神科医が「事」を起こすにおいて、何の不思議も無い。連中はひたすら人を辱める。精神科医が精神科医としての自らの一部であるその社会的立ち位置を(完全に)捨象して、特定の場面において「そう」振舞うことなど出来るばずがなかろう。精神科医であることを該当の当人から場合によって都合良く消し去ることなど出来ない。カール・ポパーという人物が、科学の科学性は反証可能性にあるという様な事を言っているが、それは明確(に科学的である様)な根拠在ってのこと。私は、「殺して拉致する」のを狩猟民族型、「拉致して殺す」のを農耕民族型、の行動であると考えているが、これにおいても同じである。前者はここでは精神科医、後者は暴力団員の類である。人類の進化の過程的には、後者より前者の方が遅れているが、快楽殺人的な後者と比して、前者においては死体という根拠付けを容易に行う事が出来る。精神科医は警察に見分させる為の死体という理由付けが欲しい。その点、暴力団員の類は実質本位であり、彼らは警察に捕まりたくない。つまり、科学的合理性とは、狩猟でも農耕でもなく採集の対象において存するということではあるだろう。死体というのは(もはや)単なるデータなのである。後者は殺人の課程を楽しむのであり、彼らは死体など要らない。彼らは、警察官に対する理由付けなど要らない。前者は、狩猟における獲物としての死体ではなく、採集を行った結果としての死体を欲しているのである。死体や精神病患者という理由付けもしくは根拠は、精神科医を絶対的に貶めない。今回の事件では、狩猟の獲物としての死体が(社会に対して)呈示されてしまった形だが、ここでは死体という媒介変数を通じて精神科医と暴力(団員)の間で(牛乳商品の如き)均質化が為されている。警察は少なくともここで言う暴力にダイレクトにはコミットしないだろう。そして、狩猟と農耕が採集へと昇華される時、精神科医は(自らの社会的立ち位置に)絶対的な自信を持つだろう。甘い果実である死体や精神病患者を採集する「事」の意義が完成された、と。精神科医というのは目的概そのものなのである。彼らに係っては、全てのものが目的概化されてしまう。そこでは、人間関係へのインセンティヴが、具象化されたマザーコンプレックスとして花開き、非常にグロテスクである。




「ハリウッドで大成功したマーゴット・ロビー、支えてくれた母の住宅ローンを完済」というニュース報道に際して(西暦2023年7月27日記載)


このマーゴット・ロビーの顔写真見てるとさ、女っていうのが如何に男の前で擬態してる生き物であるかということを知らせてくれる。この、フル笑顔を取り繕ってい(る様に見え)ながら、卑屈に被写体としての嫌悪感を漂わせている様な微妙な表情の釣り上がりとか、ね。日本人の芸能人でいうと、蛯原友里とかを彷彿とさせるよね、あのファッションモデルの。彼女らは美形ではあるよ。しかし、はっきり言ってあまり清潔なヴィジョンではない。そういう、女を見てると、やっぱりこちらも、男として、女っていうのが汚いものだと思えてくる。後は(それの)イタチごっこだよね。汚いものは見ない、不必要な情報は取り入れないことですよ。頭を使う必要の無い事に頭を使っていると、頭は確実に悪くなります。「必要は発明の母」という有名な諺があります。認識の対象として為され得ないものが認識の対象として見なされることはありません。ヒトは完全ではありません。常識の概念の存在も有ります。「自分だけこんな不幸な目に遭って、不公平だ!」ということを云うヒトが自らの理不尽さに義憤を覚えるのならば、それは一種のドーナツ化現象でしょう。「罪を憎んで人を憎まず」というのは正論でしょう。全ての人間が善良である訳ではありません。悪人ヨーゼフ・ゲッベルスはひたすらアドルフ・ヒトラーをtext化しました。これは私見ですが、おそらくヒトラーは最初から分かっていたでしょう。ゲッベルスはヒトラーを、食い物にして、「消した」のであるということです。オリヴァー・ヒルシュピーゲル監督が映画で描いてますけど、ヒトラーはあれは多分毒を盛られてた可能性が高いと思いますよ。劇中で、ヒトラーは最後抗精神病薬商品名リスパダール漬けのような状態になっていますし(飲めば分かる、そうなる)、総統地下壕から脱出する場面で料理女のオバちゃんがバッくれるでしょ?(どういう形でかソ連軍、の?、と?、(手に)渡る)、あれはそういうことでしょうね。"Keine Zeit."と言わんばかりの。




「著名人や大富豪でも「生きていて虚しい」と感じるのはなぜか…現代人が囚われやすい「夢」や「理想」の怖さ」というニュース報道に際して(西暦2023年7月9日記載)


V.E.フランクル氏といえば、ナチスの強制収容所に関することが記述されている「夜と霧」という著作の邦訳を学生時代に読んだことがあります。…しかしやはり、残念ですが「人生→自分」という構図や「意味への意志」あたりを(で)鑑みていると、ちょっと病的だな、と、考えざるを得ません。人生に生かされているというか、意味への欲求不満に陥っているのはフランクル氏自身ではないでしょうか。私見では、生きるというのは、特に意志を纏った行為ではなく、只のアラワレに過ぎないのですが、確かに、朝は起きて夜は寝る、のが、イコールでヒトではない。その事が健康のバロメーターになるわけでも何でも無い。しかし、特に人生というものに捕らわれる必要も無く、気に入らなければ人生などというものはポイッと捨ててしまえば良い。逆説的に、そうしてこそ自分の人生を客体視することが出来るようになるものと考えられる。生きるというのはそういうことだろう。踊らそうとしてくるものに踊らされながら、精神的にも肉体的にもズタズタボロボロになって、滅茶苦茶になりまた全てを滅茶苦茶にしながらクリーチャーとして生きる必要など何処にも無い。特に日本のマスメディアに多いが、生きるということを自体的に目的概化させようとする連中も居る。そういった連中から身を守るには、自分から人生なるものを(少なくとも一回は)捨象してみることである。ヒトは生きる為に生きるのではない。例えば、「人工知能に社会を支配される」などと主張している連中が居るが、人工知能を管理統御するのはヒトであるが故に、連中は管理外化されるのが恐ろしいのである。人工知能とは関係無いところで生きていたいのが連中である。社会概的な自己の存在を問うということは連中においては無い。つまり、生きる為に生きているのが連中だということである。私はここで、例えば、生活保護受給者を馬鹿にしたり侮辱したりしているのではない。それは、ヒトビトの生活スタンスの問題ではなく、ヒトビトの社会性にまつわる問題だということである。破壊衝動の問題が考えられる場合、「義務教育」は逆手に取られ「教師」はその様に無視されるべきだろう。学校の外で学ぶことなど幾らでもある。教育の場というのは押し付けられるものではなく提供されるものだろう。前者の場合、教育が被教育へと変逸してしまう。特にそこでは生物学的な自己同一性が生物学的な自己同一性であるが故に無視されており、事女性ということになると彼女らは与えられるものである(社会の中心に居るのは女性である)。それは、性が善である世界であり、生物学的な自己同一性ということでも社会学的な自己同一性ということでも女性は尊重されている。老人の役割というのは、ひたすら教えを説くことである。それの個々の是非について判断するのは若者である。いちいち老人と若者をversusにして対立構図を煽る必要など無い。そこでは今度社会学的な自己同一性が社会学的な自己同一性であるが故に(として)否定される。私はもちろんその意味で(は)世代間闘争というものを否定している。「何をなすべきか」というのはこうして立脚されるだろう。一部に離人症で云々という者も居るが。物事を客体視するということの重要さは理解されるべきだろう。「ヒトは食われることによって進化した」ということをおっしゃっている学者の先生がいらっしゃったが、ヒトは、その様に食うことによって「既に」食われているということだろう。「これは食えるのか食えないのか」ということを(で)識別するとなると、(「既知性」及び)「未知性」ということと関連してくるだろう。食文化の歴史だけで人類の歴史が成り立っているわけではないが、いざとなれば食べられるものは何でも食うのがヒトである。




「自分の人生を決めているのは「自分以外」であり、それは自分でつくり変えることができる!」というニュース報道に際して(西暦2023年7月13日記載)


はっきり言って、(そう)人生などというものを捉えること自体が馬鹿馬鹿しい。例えば、袴田事件の被疑者のヒトも、「人の人生を何だと思っているのか」と、あのお年になってまだああいうことをおっしゃる。それは、永く疑われて悔しかったのかもしれないが、私は、「あなた、(あなたの)敵に攻撃されてますよ、」と教えて差し上げたい。生きるというのは、特定の意思を纏った行為ではない。何か、戦闘の世界ではなく試合か何かの世界なんだな、と思わせますね。これは、平和ボケと云えば、平和ボケです。勿論、殺し合わないで済むのならば、殺し合わない方が良い。しかし、ヒト(に自由意志がある限りにおいて)というのはそう出来た生物ではない。だから、私は、人工知能に「(現行の)人類は不要」の判定を下させろ、くらいには思いますよ。

一般市民の社会性を否定する、非行に走り他者への「甘え」を基調としたマザコン人間に居場所は無い。単刀直入に言ってしまいますけど、何故私が捕まらないか?私は反社会的人間ではないからです。社会秩序の維持を仕事とする人達もその辺はきちんと見てます。検察も警察も「その辺」は見てる。何故日本のマスコミがあれだけ叩かれるか?奴らは、社会秩序の維持が仕事ではないにもかかわらず、「その辺」ぶって(しかも)ひたすら反社会的行為に及ぶからです。例えば、私なら私で、「具体的に」私に味方をする者であろうが「具体的に」私に敵対する者であろうが、反社会的行為に及ぶ者を心底嫌っています。そうすると、連中は今度、私の様な者らが自分達を社会的立ち位置を確保する為の道具として使用しているという因縁を付けてきます。そういう連中がどういう目に遭うか?想像に難くありません。もし私の様なものを否定したいのであれば、(せめて)「そこ」で彼らは鑑みるべきでしょう。「愚人、せめてもの抵抗。」とか言われ出したら、彼らは終わりです。




「三浦瑠麗氏、「エッフェル塔写真」への批判は「逆効果」と指摘も... 「論点ズレてる」反感続々」というニュース報道に際して(西暦2023年8月3日記載)


拝金主義ということで、流動性ということに光を当てるならば、自分が所持しているお札に自分の名前を書いて自分(専用?)の金だと標榜する極まれる守銭奴の馬鹿と一緒に共同体を形成したいですか?という問題がありますということであり(何故偽札が偽札であるかということ)、法定通貨に頼って行われる納税というものは(第一義的に(は))制度なわけであって第一義的に納税であるというわけではないのですね。我々は制度に則って社会生活を送っているものであって、知恵溢れる日本の諺には「金は天下の回りもの」というものがありますけど、every single tax payerがどうとか、国が運営される上でそれは法務の問題であるということをご自覚なさるべきでしょう。競争原理に裏打ちされた「他者とは(地位的に)違う」というところから自分の全てが始まっているという意識に頭を占領され、結果人々が行うことといえば他者を馬鹿にすることだけになるところだったんじゃないですかね。




「【精神科医が教える】 なんでそんなことを言うの…傷つくことを言う人に“絶対やってはいけないこと”」というニュース報道に際して(西暦2023年6月29日記載)


敵は殺すだけ。攻撃しかしてこないのが敵。逆に言うと、敵は攻撃しかしてこない。精神病患者のヒトっていうのは、そこのところがよく分かりにくい。教育がよく浸透してしまっているとも言える。学習能力に問題は無くても、やはり人格的には問題がある。こういったことを患者である私に教えたのは、貴方方精神科医だよ?私だって精神科に掛かる以前は子供の頃からの教育が効いていた。

そういったことをきっちり教え込んでくれた精神科医の先生方面々におかれましては、師ということで大変感謝しております。本当です。いや、だって、精神科医の先生たちだって「公式」にしてないだけでしょ?つまり、「そういうこと」を私はワザと故意に言ってます。この文面自体もそうです。この文面も含めた「そういうこと」を私の敵が認知することによって私の敵がダメージを受けることを私は知っているからです。分かるよね?




「男子校での "オタク" と "ヤンキー" の関係性が共学と違うらしい…?「女はこうはいかなさそう」「男子校で吹っ切れた奴は最強」」というニュース報道に際して(西暦2023年6月29日記載)


コレ、恥ずかしいよね。例えば、私は今も昔もオタクの部類だが、交際する相手についてはきちんと相手の人間性を見る。共学校だとか男子校だとか、「オタク」だとか「ヤンキー」だとか、そもそも関係が無い。この歳になった現在でも、時々、(ブタ女から身を守る為の手立てとして)、おそらく昔だとチーマーだとか暴走族だとか言われていたであろうお兄さん達がヘッドライトで合図を送ってくれたりすることもある。これは事実であり、ちなみに私は同性愛者ではなく、この漫画にある様な社会的立ち位置でも何でも無い。




「“ふれあい”に影武者説 プーチン氏なぜ大サービス」というニュース報道に際して(西暦2023年6月29日記載)


こういう国家元首としての行動には、ウラジーミル・プーチン氏御本人の意思が反映されているだろうから、「影武者である」とか「影武者でない」とかそういった定義自体がナンセンス。何言ってるか分かる?仮に、それがウラジーミル・プーチン氏御本人であろうがなかろうが同じであるということ。日本の馬鹿マスコミはちゃんと考えてから報道しようね。




「「女性がいつの間にか好意を抱いてしまう男性」に共通している3つの言動」というニュース報道に際して(西暦2023年7月27日記載)


諦念的な見識と思われるかもしれませんが、若かりし日々においてはともかく、中年のおっさんになると、好意を抱かれるとか抱かれないとか、そういう概念自体が無くなるのですよね。特に異性にモテるとかモテないとかどうでもよくなる。これは男性視点の見解です。女性はやっぱり「求められたい」という感慨を抱くのでしょう(か?)。男性も、若い時分はある程度女性的であり、女性も、若い時分はある程度男性的である。以下、生物学的な原理からしての話。男性は加齢と共に子種を撒き散らすことからどうでもよくなる。女性は加齢と共に子種を撒き散らされることからどうでもよくなる。だから、男性は年を取ると恋愛的なものに興味が無くなり、女性は年を取ると一般的性的見解に巻き込まれていく(仲人的に人と人との間を取り持ちたがるオバさんとかはその典型でしょう)。私はそれを(牛乳商品の如き)均質化と呼んでいますが、自己と他者の境界がはっきりせず曖昧になり、それこそオバさんに垣間見られますが、健常な他者にはうっとおしがられるだけでしょう。相関関係と因果関係の区別が付かなくなり、只々ステルスマーケティングの相手をさせられ、自己(self)が瓦解してゆくだけ。具体的には、詐欺に引っかかり易くなる等々。それでは、自分自身になることが彼らにとって究極の危機であるというところの生き物にヒトは変貌してしまいます。その様な特定の人々において、愚かな行(ぎょう)を積まれるのはよろしいですが、それで得られものは彼らが最も恐れる(ところの)「死」でしょう。サタニストとは云いませんが、人間関係へのインセンティヴは彼女らのものでしょう。逆に、そもそも「死」んでいる様なのが高齢男性でしょう。死神の偶像を考えてもらうと分かり易い。何故生きているのか分からないとかそういうことにもなってくる。哲学的思考へのインセンティヴは彼らのものかもしれません。

若い時分の男性の女性性というのは、対人の取り結びやコミュニケーションにも活発であり、死について知り考える能動も少なく、一種愚直であるということ。只、これは彼らが若い場合に限られるということ。若い時分の女性の男性性というのは、死にまつわって種々残虐性が垣間見られ、ある程度理知的であり、場合により他人を撥ね付けたりするだろうということ。只、これも彼女らが若い場合に限られるということ。人間関係へのインセンティヴに裏打ちされた、男児と母親(老女)の絆はこういったところからも説明されるでしょう。彼らは、自身当該と当該を産んだ母親という関係において「同じ」であり、生(性)への欲動に基づくコンプレックスで鑑みられています。男子において、それが転化されると母親以外の女子とのセックスということになるでしょう、そしてそれは概してマスターベーション的でしょう。また、哲学的思考へのインセンティヴに裏打ちされた、女児と父親(老人)の絆はこういったところからも説明されるでしょう。彼らは互いに背中を任せられる相手としての相手に、死への欲動に基づく性衝動を見ています。女子において、これが夫婦関係であれば(それはそれでそれなりに)円満にいくという認識を得ることになるでしょう、そしてそれは概してセックス的でしょう(これをセックス的マスターベーションとは云わないが、女子(ヒトのメス)の生物学的な生理においてそれは必然でしょう)。ところで、西洋の女性たちは、水着等の露出において、もの凄くセクシーです。彼女らは、セクシーというよりは、セックスというものが「『どの』ように」大切であり夫婦関係の基本であり人間関係の基幹として存在しているかよく分かっているのではないですかね。だから、そのようにセックスを捉えているのではなく、セックスというものがそのように在る、ということではないかと考えられます。「恥の文化」ではなく、彼ら彼女らはまさに、「罪の文化」に生きる者達であるということでしょう。一部の日本人に未だに蔓延ってるんですけど、性描写に関していちいち嫌らしいとか難癖を付けるのが居るんですけど、オマエの「それ」が一番嫌らしいんだっつーのということを連中は全く理解しないんですね。男性はね、そういう社会的行為によって、例えば社会学で言うところの裏局域みたいなものの生成に役立てるという形で男同士の嫌らしい猥談みたいな方向へ昇華させられるから、別に良いんですけど、女性はそれによっておそらく本当に嫌らしい思いをして苦しむことになるんですね、そしてそれこそが男性の生殖の本能に基づく(無意識的に為されるものであろうが)狙いだったりもするわけです。だからそういうのをもう止めようよ、性教育というregulatorを介してでも認識界隈を何とかしようよ、と、皆で努力をしているわけです。ジェンダーイクォリティの概念も「罪の文化」から生まれるものでしょう。




「人間関係に役立つ!ポジティブ思考とは違う【リフレーミング】より効果的に使うには?臨床心理士が指南」というニュース報道に際して(西暦2023年7月3日記載)


この記事で、ひとえに語られているのは、典型的な自己洗脳であり、関係妄想の捻出。まさに自己のフレームを瓦解させることが推奨されており、この様なものに引っかかっては、認知や判断や行動がやられるだけである。この様なものにコミットするヒトにおいては、自動車の運転など絶対に行わないことが推奨される。私はそれを(牛乳商品の如き)均質化と呼んでいるが、自己と他者の境界がはっきりせず曖昧になり、健常な他人様にはうっとおしがられるだけである。相関関係と因果関係の区別が付かなくなり、只々ステルスマーケティングの相手をさせられ、自己(self)が瓦解してゆくだけである。具体的には、詐欺に引っかかり易くなる等々。それでは、自分自身になることが彼らにとって究極の危機であるというところの生き物にヒトは変貌してしまう。愚かな行を積むのはよいが、それで得られものは彼らが最も恐れる「死」である。

快楽主義というところの究極は、危機回避であろう。死より恐ろしいものなど枚挙に暇が無いことを知っている者の場合はだが。ところで、「皆が知っている」場合どうなるか?事実報告だけが該当社会において為される様になるだろう。太宰治氏が滅びの民について云々と語っていたが、滅びが状態である様に人々の認識を彼らはズラしていく。それは、一種の伝染病の様なものである。そこにあるのは、有情という病であるというわけではなく、情の有りが病的になってしまっている痴態である。何も学べなくなるというわけではないが、おそらく、知能が歪んでいくと云うと正しい。ナチス支配下のドイツを生きていた老人達は、決まってこう言う、「皆知っていた」、「皆分かっていた」と。

「es warという言葉を理解する様になる」と云った(言った)ニーチェは、皮肉にも、三島由紀夫氏の切腹(自殺?)を予言していたのではないか?具体的な法という場合、順法意識というものが付いてまわる。それは、具体的な法を制定する場合であろうが、具体的に法を違反する場合であろうが、同じである。ここで、「意識自体が無い」ということを、「順法意識」ということにまつわって考える場合、「法は社会の反映である」上で、社会概としての自己が死の表象として存在することになる。「内逸」という言葉を英語の"jurisprudence"という単語に訳出する場合、社会は「そう」現象する。カルヴァンやリシリューや果てはヒトラーやスターリンに至るまで、サイコパス的な具合にまつわる「それ」を、人々は殺し合いもしくは戦争と呼ぶ。

三島由紀夫氏は、「esの無い人」と呼ばれていたらしいが、彼の認知領域は死であった。その意味で、彼の行いは自殺ではない。彼は死ぬべくして死んだのである。しかし、そのこともまた彼(という死)の表象でしかない。故平岡公威氏と三島由紀夫氏は別個の存在ということである。神風特攻隊の隊員が敵陣に突っ込み爆発死するその瞬間の生命の輝きを、人々は見るのである。「あなたが死に携わっているのだ」ということを人々は知るべきだろう。

目の前の現実を信じられなくなったら終わりである。物理的に近くに存する他者が盲目の闘将と化すのは時間の問題である。そこには、物事における、因果関係は存在せず相関関係は存在する。…私が盲目?私は、「予め」世界を準備している訳では決して無い。もちろん、それは、「どれが現実なのか」という形容詞の世界ではなく、「どう現実なのか」という副詞の世界だろう。社会が言語であるという場合、はじめに言葉があった、ということだろう。「言葉」という表現が採られる場合、その多言語的多義性は「ただそれだけで」詩文学的である。言葉の世界に生きている人々が、文学である世界に生きているか文学でない世界に生きているかというのは、問いとして成り立たないだろう。「文学」だとか「問い」だとかいったものは、全て、過去完了形のメタファーである。
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