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「「『キラキラネーム=頭が悪い』という偏見が…」18歳で「王子様」から改名した男性の現在」というニュース報道に際して(西暦2023年5月12日記載)


頭が悪いかどうかは知らんが、ちょっとどうかと思うというのはあるよね。社会には、「常識って言葉知ってる?」だとか「常識の目を光らせておくことが重要である」だとかいったことを主張する人間達も居るんだよね。で、そういった人々に追従したくないというか、そういう大人にするべく子供を育てたくないという親御さんも中にはいらっしゃるのだと思う。ただ、やっぱりそれも程度問題で、例えば「悪魔」というネーミングをされたら子供には社会的不利益が生じるだろう。だから、あまり社会的常識から逸脱しない様に、適当な匙加減が求められるのでしょう。

ちなみに、

「知能指数」というのは只の評定だから、この場合の指標としてあまり適切でない。それは、「学校の勉強の偏差値」と同じ事で、本人の環境にまつわる様々なパラメータが影響する。だから、記事のタイトルにある通り、「頭が良い」とか「頭が悪い」とかいう表現がまだしも妥当なところのものだろう。そして、「親の頭が悪いとその子供は努力しても頭は悪い」。これは、偏見でも何でもなくて、社会環境にまつわる伝染性というものもあり、遺伝的要因もあり、少なくとも知能ということに限って言うならば「知識の量イコール知能ではない」。つまり、生まれつきの頭の良し悪しというのはだいたい決まっている。学校の勉強をひたすらやっていれば頭が良くなるわけでもない。逆に言えば、後期中等教育までの学習内容などというものは、頭が悪くてもそれなりに学業成績を残し得るものであるということ。あまり大したことじゃない。

古典的な算出のされ方の知能指数というのであれば、私だってIQ110くらいしかない。しかし、実際数値を与えてもらうとなると、もっと高い値で出るだろう。ヒトの脳の機能というのはそう単純ではないし、「運(luck)は科学的に証明できるか?」といった議題にかかずりあうことになる事象も存在する。少なくともその意味で、科学的に(は)、まだ未解明の領域だろう。そもそも、努力でIQの数値が上がるかバカヤロウという問題であって、先には「頭が良い」とか「頭が悪い」とかいう表現をとったが、ヒトが形成する社会に生きている者ならば理解できる通り、そういうものは確実に存在する。こんなことを言うと、生物の知能を専門に研究している科学者の人に怒られるかもしれないが、つまり、IQというのはそういう評定としての数値に過ぎない、ということ。その評定によってそれを与えられた当人が(少なくとも短期的には)変逸することは無いということからも分かる通り、あまり気にする必要は無い。




「日本の大学院は院生にひたすらストレスをかけてふるい落とす…内田樹が指摘する日本の教育に足りないもの」というニュース報道に際して(西暦2023年5月23日記載)


それは、ひとえに、人材育成という側面からのみ見なされることが殆どだからでしょう。日本国の全体主義的な悪しき風習というか、研究の内容が第一義として来ない。研究の内容ありきでその人が、ということなのに、日本の場合、その研究をやったその人は?、ということになる。例えばアメリカ留学経験があろうが何だろうが、権威主義的なアカデミズムの御大尽を見てれば分かるじゃないですか。「どの偉い先生に付いて、お弟子さんがどれだけ居て…」とか、アンタそれが先じゃないでしょ、という例の典型的なアレです。それは、もちろん、若者達は、「ボクは修士号持ってる!」だとか、「ワタシは博士課程出てる!」だとかいったことになってくる。「早く年収1000万になりたい!」だとかいったものも同じ原理でしょう。「で、貴方は大学院で何を研究してらっしゃったんですか?」と問われても、自信をもって答えられない。資格取得の為に研究内容を選ぶような輩だからです。その評定で本人が変逸するわけではないのにね。これは「学校の勉強の偏差値」や「知能指数」といったことについても同じことが言えるでしょう。で、その評定を与えれられた事によって貴方が何か(少なくとも短期的に)変わるんですか?っていうね。私の親族にも大学院出のが居ますけど、何だこのバカな人間は、っていうレベルの輩ですよ。

本質的に(「その」)研究を行って実績を出せる人でないと評価されないはずなのですよね。「これを書かなきゃいけないから……」という理由で、レポートの為のレポートや論文の為の論文をいくら書いて学位を取ったところで、「で、あなたその先研究者としてやっていけるの?」というそういう世界ではないでしょうか。

同じくして、

大学というのは教育機関なので、どの様な研究者の人がどの様な研究を行いどの様な学生に対して何を教えているかということが問題となってきます。だから、大学入学の目的としてのものが該当大学において行われていることで達成されるのならば、一般的常識とは逆に入学試験など難易度のハードルが低い方が良いという事になるでしょう。入学試験などというものは、それを実施する教育機関への入学をそれの合否の判定側が許可するか許可しないかというものでしかありません。入学試験を取り仕切る大学の教員達を信頼もしくは信用できないというのであれば、その様な大学は最初から受験しなければ良いでしょう。つまるところ、大学入学試験の偏差値の高低で、仮にそれを突破したからといって、その人物の何たるかが一義的に決定されるということはありません。試しに東京大学の学生の人たちや東京大学の卒業生の人たちに、「貴方は何故東京大学に入学したのか?」と聞いてみれば良いのではないでしょうか?「東京大学の入学試験を突破する為です!」と言う人はまず居ないでしょう。

学歴はファッションブランドではありません。




「医学部・医者のエリート街道、「MARCH理系合格レベルの受験生」にも門戸が開かれた」というニュース報道に際して(西暦2023年5月30日記載)


そもそもMARCHの理系が特定に取り沙汰されてどうこうと言及されるものではないだろうが、MARCHの理系だって誰もが努力無しでホイっと入れるようなところではないのだが?私立の理系だから国語の試験が無いし英語も文系に比べて簡単だろうが、入れないという奴も居るだろう。ちなみに、理系で英語が出来るのと英語が出来ないのでは全く違うので。

ところで、

何故COVID-19のオミクロンヴァリアントについて'of concern'なのでしょうか。科学者達は答えを「知って」います。だから、その実態に合わせて(において)当該的にそうであるという事なのに、科学を信用できないというのであればそれまでのことでしょう。そういう社会資本を担う人々について、これは従うとか従わないとか信用するとか信用しないとかそういう問題ではありません。科学者に対する意見と科学技術に対する知見は別個のものです。

かつて、米国の国立アレルギー・感染症研究所所長のアンソニー・ファウチ医師が、米国のニュース番組で、COVID-19の処理について、「常識で」、「常識に則って」、さらには、「医師になるべく勉強している学生が影響を受けることは無い」、みたいなことをおっしゃってました。この場合、防衛という観点からして常識は大切でしょうが、そもそも常識を逸する事態に我々は体面していたものであり、常識を基幹としたものの捉え方だけで問題を解決できれば誰も苦労しません。そして、ファウチ医師がおっしゃるような少なくとも見解からしての医学生の取り扱いが妥当・適例・必至だというのであれば、義務教育において医学を必修化してもらわねばなりません。現実的に考えて、それは各人の知力や労力の問題で不可能であり、仮に可能であるとしても莫大なコストが掛かります、し、もしそうなったらば医療技術が社会資本ではなくなります。それこそ医療社団法人ではなく医療法人社団を作らなければならなくなるというあたりで、医学や医療技術が特権階級の奢侈品へと堕ちます。

「レッドパージ」(「赤狩り」)とまでは個人的に言いたくありませんが、アカデミックという場合、その内実となるものの礎を考えると、「アカ」であるということが言えるでしょう。アカデミズムについても同じです。人的資本へのいたずらな抑留を表明する者を非難することは出来ません、何故ならば、それは単なる対人スキルであるところの非本位的な嘘であるからです。これが非本位的な嘘ではなく本位的な嘘である場合、それは、コミュニケーションに特化されたオペレーティングシステムが「入っている」とでも形容され得るものかもしれません。……「人間関係を学ぶ」という場合、それは前者におけることとして考えられるでしょう。

ナチスの悪夢はすぐそこにあります。赤い欲望が欲望を呼ぶ破滅を避ける為には。




「ロシア大統領、物価が制御不能なら経済に打撃 為替は問題ない」というニュース報道に際して(西暦2023年9月13日記載)


貨幣数量説という有名なものがありますけど、あの歴史の教科書に必ずといっていいほど出てくる兵隊さんが札の山の隣で途方に暮れている写真に見られるような第一次大戦後のドイツのような状態にでもならない限り、短期的に急激なインフレーションは起こらないので、(薄利)多売目的の財・サービスを多産すると同時に何らかの手段で消費者の購買意欲を煽って貨幣の流通速度を低下させないことで貨幣の流通量を増やすことができます。現在現実にそうなっている通り当然物価の上昇は見込まれるでしょうが、貨幣には交換手段以外に価値貯蔵手段としての機能もありますし、ケンブリッジの現金残高方程式というものも在る様ですが、消費者の溜め込み癖を解除して、投資ブームと云われている昨今にまつわるということもあり、それに逆行するのが現金以外の流動性の存在です。全ての流動性は、(その時点で)最も流動性の高い価値尺度へと収斂されていくのでは?消費されるのは貨幣ではなく財やサービスであるということを考えれば当然のことかとは思われますが。中央銀行が「最後の貸し手」と云われている通り、カネ自体が目的になることは無いということです。株価の乱高下が投資家の疲弊に繋がるという経済学の学説もある様ですが、確かに価値貯蔵手段としての流動性の役割は人々の心理的側面において重要ではあるでしょう。しかし、そもそも、流動性の種別が無くなる程に(それが)収斂されていくということはあまり考えられない(貨幣保有比率は下がらない)。

(西暦2023年9月13日2時00分記載)




「ECB、過剰流動性への対処方法を近く議論する計画-報道」というニュース報道に際して(西暦2023年9月19日記載)


一般の銀行にお金が滞留し過ぎていると様々な弊害が起こります。貨幣の流通速度をいたずらに低下させるわけにはいかないので、人々の実質所得が下がっては本末転倒ですから、生産量を下げる云々もしくは人々の貨幣の溜め込み癖を解除するしかないのです。技術進歩その他の事を考えると、あまり前者にコミットするわけにはいかない。ウォーレン・バフェット氏が「良い事業に対して、良い投資を行う」といった様なことをおっしゃっていましたが、日本の学校で投資の授業が必須化されるというのも、これともちろん関係があるでしょう。消費されるのは貨幣ではなく財やサービスであるということを考えれば当然のことかとは思われます。株価の乱高下が投資家の疲弊に繋がるという経済学の学説もある様ですが、確かに価値貯蔵手段としての流動性の存在は人々の心理的側面において重要ではあるでしょう。しかし、そもそも、流動性の種別が無くなる程に(それが)収斂されていくということはあまり考えられない。つまり、妙な言説かもしれませんが、銀行というのは「銀行」という一つの流動性であると考えると妥当かもしれません。今回のECBの銀行に滞留する過剰流動性の削除というのは、その意味で(もちろん)健逸な判断でしょう。「銀行」の価値が(ヒトが形成する社会上のこととして)下がっていては、これは問題である、と。

(西暦2023年9月19日3時45分記載)




「FRB、金利見通し修正も データ強く=セントルイス連銀前総裁」というニュース報道に際して(西暦2023年9月15日記載)


インフレの傾向が在ろうが、中央銀行が利上げを行おうが、ともかく、物価の上昇もしくは貨幣の流通速度の低下によって、人々はお金を溜め込みやすくなるということですよね。にもかかわらず、消費者物価指数が上昇基調にあるということは、ブラード氏の「これはまずい」という判断は的を得ているということでしょう。人々の所得が上昇するか物価が上昇するかということでしょうから、(CPIの云々で判断すると)貨幣の流通速度は低下せず、FRBは利上げを行う可能性が高いということではないでしょうか。

(西暦2023年9月15日9時00分記載)




「ひろゆき氏、経団連会長の“消費税増税から逃げるな”にコメント「物価が上がると喜ぶ人たちもいて」」というニュース報道に際して(西暦2023年9月30日記載)


十倉雅和氏と西村博之氏では、法規上の日本国民という母集団を考えた場合の、切り口が異なるんじゃないでしょうか。それは、ひろゆき氏のおっしゃる通り、もし仮に「貴方にとって物価が上がって都合が良いですか都合が良くないですか?」という質問をされた場合、日本国民はバッサリ二種類に分かれるでしょう。これが、十倉雅和氏のおっしゃる「消費(増)税から逃げてはいけない」に適うには、ヒトが経済活動に携わる限りにおいて、二種類の財・サービス(のバスケット)からなる経済を考えなければならなくなるでしょう。しかし、現実問題としてそれは有り得ない。実態経済というよりは、現実経済という妙な言い方をここではしますが、それはそういうものです。私も経済学部出でこういうことを言うのは何なんですが、アカデミズムの経済学畑の人達にはどうしても実態経済を(として)数値上の物事としてだけ(で)鑑みる傾向がある。植田和男日銀総裁があまり叩かれないのは、現実経済を(で)きちんと鑑みているからだと考えられますよ。

(西暦2023年9月30日16時00分記載)




「富裕層のくせにユニクロを買う理由 休日のTシャツ、短パン、サンダルおじさんが最短でアプデできるから?」というニュース報道に際して(西暦2023年8月8日記載)


は?スタイルやファッションブランドや価格を着用するのではなくて、当該の品を着用するわけですから。衣服だけに限らず、該当の商品を購入するにおいて、価格を購入するんですか?財やサービスを購入するんですか?という問題です。

例えば、「『貴方は『薄皮饅頭』と言いました!薄皮饅頭ってとても美味しいですよね!』という発言は著作権法違反に該当する」というのは間違っています。これらのことに関して、例えば非代替性トークンなどというものは、そのtexturizationが(からして)、単なるそういうものです。何故既存の経済学が「つくりもの」であるかという事にも、少なくともこれについては、物事の問題の本質があらわれています。例えば、著名人某氏の初ツイートには非代替性トークンの定義に当てはまる価値が場合によりあっても、別の何某氏がツイートした「パンケーキ」という初ツイートには同の定義に当てはまる価値は無いでしょう。しかし、この2ツイートにそのような「差」は無いでしょう。仮にも、後者「パンケーキ」を購入しようとするヒトが居るとして、それには0セントも含めて何らかの価格が付くはずです。非代替性トークンなるものの定義者達は、カネが支払われるか支払われないかという事に問題をすり替えています。




「超難関国立大学院卒(以下略)」というニュース報道に際して(西暦2023年5月27日記載)


あいつらはね、例えば名古屋なら名古屋で名古屋経済圏というか名古屋都市圏みたいのがあるでしょ?そこでの、ローカルな生き物として、トップの座を欲しがるわけ。だから、名古屋大学法学部なんて、そういうものの恰好の的になっちゃう。あそこはね、高等学校も上から、県立学校が、旭丘、明和、千種、菊里、って並んでんの。東海だとか滝だとか優秀な私立学校もあるけど、それはちょっと例外。

これが、「名古屋」が「国立」になっても同じ事。「国立」圏がある上に、一橋なんて旧高等商業の独自ブランドで当該的にそう。ストレートに東大法学部じゃなくてね。それで目指すおバカな人間も居る。

大学は高等教育を学生に施す為の教育機関なのにね。




「私大の経営破綻に備え学生の修学継続へルール作りに着手…少子化で284校が定員割れ」というニュース報道に際して(西暦2023年5月25日記載)


また入学試験の偏差値云々であまりこういう言い方はしたくないのですが、それは例えばいわゆるFランク大学は生き残りにおいて状況は厳しいだろうなとは考えられます。「少子化」以外にも大学の経営破綻には様々な要因が存するのであって、例えば私大でも早稲田や慶應義塾やMARCHが、上智もそうですけど、潰れるかというとまず潰れないでしょう。だから、単調なグラフを持って来られた挙句、「少子化」、はいそうですか、気を付けます、ということにはならないのですよね。また、有事の際の学生の受け入れ先の問題もあるでしょう。同レベルの大学で個々の学生さんにとって都合の良い大学が見つかれば良いですけどね。

経営の問題(搬入)だけでなく学生の就職先(搬出)ということについてもそうですよ。例えば、産業能率大学は、20年あたり以前、「学生の就職率100%!」ということを謳い文句にしてましたが、アンタ、何処に就職してんの?、という問題がある。中小でもまともな企業だったらば良いんですけどね。只、どちらにしろ、それで「就職率100%」が大学の宣伝材料になるという事はあり得ない。企業間の競争を無視しているというか、何かを根本的に勘違いしている。




「100点のテストを見せた後の毒母の反応は…? 理不尽すぎる言葉が【子ども大人な毒親との20年間 Vol.36】」というニュース報道に際して(西暦2023年6月12日記載)


残酷な様だが、自分の子供を虐待する親の(その)子供は(その)親の遺伝子を受け継いでおり、自分の子供を虐待する親のその自分の子供を虐待するという行為は然りと云えば然りなものである。只、社会環境にまつわる伝染性というものはあるので、その様な行為は決して推奨されるべきものではない。




「本体と一緒に埋葬されなかった有名な体の一部」というニュース報道に際して(西暦2023年6月19日記載)


アルバート・アインシュタイン氏の左脳は肥大化していたそうですね。私が読んだ何かの本に書いてありました。要因は、今となっては、明確では無さげですが、興味深い事です。




「東大生が推薦「成績がみるみる伸びる文房具」3選 うまく活用することで、勉強の効率も高まる」というニュース報道に際して(西暦2023年6月23日記載)


私は最高学歴の者ではありませんが、小学校の時分に漢字の書き取りの練習と計算問題の練習だけはよく行いました。かの有名なビル・ゲイツ氏も文字の手書きを推奨されていますし、漢字の手書きは文章作成能力の上昇に多大な貢献をするそうですが、私は、文房具というと、例えば、事実記録用の万年筆と論考論述用の万年筆とを分けて使っています。それ以外に黒鉛筆や赤青鉛筆もたまに使います。もちろんパソコンを使用してタイピングしながら文章を作成するということも行いますが、筆記具を使用するという事自体へのこだわりがあります。

ちょっと気になったので一つ。例えば、「昨日、ジョギングであるところの運動をして、汗をかいたので、体重が減った。」は事実でありこの文面の記録は事実記録でしょうが、「ジョギングをすると、体重が減る。」は事実ではなく、この文面の記録は事実記録ではないでしょう。上記の「事実記録(用)」と「論考論述(用)」というのはそういう意味です。
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