「頑張ってもモテない「残念系メンズ」に一番欠けているのは地道な反復練習!?」というニュース報道に際して(西暦2023年5月11日記載)
「お前の価値承認など求めてはいない」という相手が社会には存することをヒトは知るべきだろう。詩人金子みすずの「みんな違ってみんないい」というのは、臭いものをにおわなければいけない義務的心理をあらわしている(に過ぎない)。その他者の価値を認めることも無いし、その他者に自分の価値を認められる必要も無い、という他者が社会には存するということをヒトビトは知っているはずである。他者への社会的価値承認要請を行う者は疎ましがられるだろう。「社会的価値承認欲求(の存在)」という形容で為される人々はまだ社会的に是認される余地もあるかもしれない。しかし、これが前者となるとうっとおしがられ社会的に排斥されるだろう。それは、他者に対して自らの社会的判断を押し付ける者であったり、他者に対して物理的暴力を振るう者であったりするだろう。
人々は、笑えない話をされた場合、特定の客体に対する引きを感じるだろう。セックスをしながら「そのような」笑いに走る者が居るだろうか?自らのあまりの動物的行為に自虐的な滑稽さを認める者は居るかもしれないが、それによって「そのような」笑いが誘発されることは無いだろう。セックスだろうがマスターベーションだろうがそれによってもたらされるエクスタシーは(少なくとも「そのような」)笑いにつながりはしないだろう。
「意志が弱い」という表現で表象されるそれは、対象への既知性に基づく認識のことであろう。もちろんヒトはそれぞれ異なった人格を持っている。それは、「女集団」を意識しているもののそれである。(よって)私には、「ありのままの自分を分かって欲しい」という人間達のその価値感覚(というと間違いだろうが)は理解できない。それは、「私はできる!」というセリフによる表象だったりまた「私がやる!」というセリフによる表象だったり(「私はできる」は「私がやる(する)」の必要条件であり前者も後者も共に「私はできる」に属する)、実際的な意志の弱さだったりするだろう。その様な、「男集団」を意識する人間たちのそれは、社会を破滅へ導くだけだろう。それは「自由からの逃避」であり、責任も自由も無いマシーン達が作った虚無主義の社会、それはナチスと同義である。生物としての彼らに自由意志が無いとは、おそらく科学的にも、到底考えられない。もし仮に、彼らに自由意志が科学的観点(?)からしても、無いとすれば、それは擬声語として「アウアウアー」とでもしか発声出来ない赤ん坊と同じ生物である。そのおぞましさが分かるだろうか?ヒトの内最も残酷なのは老人ではなく生まれたての赤ん坊である。それはimmatureなどと云って済むものではなく、(もはや)natureの世界である。「出る杭は打たれる」という諺があるが、ヒト以外の動物を見よ。
「和田秀樹「年寄りは目障り」「何でも若いほうがいい」なぜ年齢差別が日本では放置されているのか?『年齢差別禁止法』が存在するアメリカとの違い」というニュース報道に際して(西暦2023年6月12日記載)
基本的に、和田秀樹先生がここで指摘しておられるような一部の日本人は、物事を考えるにおいて具体性が無い。私はそれを、(私には朝鮮半島の人達や在日朝鮮人の人達を侮辱する意図は全く無いが)「在日挑戦人の仲間意識」と呼んでいますが、まず人間関係が第一義として先に来る。問題の解決を図るべく物事を具体的に考えることが出来ない、というか、そもそも物事を考えるということが出来ない、それがどういうことだか分からない、ということなのではないかと考えられます。和田先生がおっしゃるところの脳の老化の一でしょう。とにかく、やるといったら言葉が先に来て「ヤる!ヤる!」ということで、「チャレンジャー」とでも云うことが出来るでしょう。一見諦め調子でも、このチャレンジャーズは動態的に挑戦していますから始末に終えない。
例えば、
芸術の本質というのは、自分が生きている時代の背景やそれに照らし合わされた個人的体験(など)が多義的に考慮されそれについての理解を人々の間に(問題)提起していくというところにあるはずです。それを、芸術を自己顕示欲達成の道具として使用したり、芸術を金儲けの道具として使用したり、そういったことを行うのが間違っているということです。だから、本当に芸術をやりたいのであれば、特に芸術をメシのタネにする必要は無い。というか、芸術は、メシのタネ足り得ない、メシのタネに為り得ない。路上で自分の絵画を並べている人たちや、楽器を演奏しているストリートミュージシャンの人たちを見て下さい。
医学についても同じことが言えます。医学の本質は患者を治療することにあります。ところが、一部の精神科医に顕著なのですが、患者を医学の為の医学の「為る木」として利用あわよくば使用し、病気の為の病気を司る様な連中も居ます。
そういった、捏造を旨とするヴィジュアル系達が、芸術や人についての根本的理解を妨げている。その意味ではヴィジュアル系ロックバンドはヴィジュアル系ではない。
そもそも、
「お前の価値承認など求めてはいない」という相手が社会には存することをヒトは知るべきだろう。詩人金子みすずの「みんな違ってみんないい」というのは、臭いものをにおわなければいけない義務的心理をあらわしている(に過ぎない)。その他者の価値を認めることも無いし、その他者に自分の価値を認められる必要も無い、という他者が社会には存するということをヒトビトは知っているはずである。他者への社会的価値承認要請を行う者は疎ましがられるだろう。「社会的価値承認欲求(の存在)」という形容で為される人々はまだ社会的に是認される余地もあるかもしれない。しかし、これが前者となるとうっとおしがられ社会的に排斥されるだろう。それは、他者に対して自らの社会的判断を押し付ける者であったり、他者に対して物理的暴力を振るう者であったりするだろう。
人々は、笑えない話をされた場合、特定の客体に対する引きを感じるだろう。セックスをしながら「そのような」笑いに走る者が居るだろうか?自らのあまりの動物的行為に自虐的な滑稽さを認める者は居るかもしれないが、それによって「そのような」笑いが誘発されることは無いだろう。セックスだろうがマスターベーションだろうがそれによってもたらされるエクスタシーは(少なくとも「そのような」)笑いにつながりはしないだろう。
「意志が弱い」という表現で表象されるそれは、対象への既知性に基づく認識のことであろう。もちろんヒトはそれぞれ異なった人格を持っている。それは、「女集団」を意識しているもののそれである。(よって)私には、「ありのままの自分を分かって欲しい」という人間達のその価値感覚(というと間違いだろうが)は理解できない。それは、「私はできる!」というセリフによる表象だったりまた「私がやる!」というセリフによる表象だったり(「私はできる」は「私がやる(する)」の必要条件であり前者も後者も共に「私はできる」に属する)、実際的な意志の弱さだったりするだろう。その様な、「男集団」を意識する人間たちのそれは、社会を破滅へ導くだけだろう。それは「自由からの逃避」であり、責任も自由も無いマシーン達が作った虚無主義の社会、それはナチスと同義である。生物としての彼らに自由意志が無いとは、おそらく科学的にも、到底考えられない。もし仮に、彼らに自由意志が科学的観点(?)からしても、無いとすれば、それは擬声語として「アウアウアー」とでもしか発声出来ない赤ん坊と同じ生物である。そのおぞましさが分かるだろうか?ヒトの内最も残酷なのは老人ではなく生まれたての赤ん坊である。それはimmatureなどと云って済むものではなく、(もはや)natureの世界である。「出る杭は打たれる」という諺があるが、ヒト以外の動物を見よ。