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「発達障害というレッテルに苦しむママ・パパたちが急増!でも、それって本当に発達障害!?【小児脳科学者】」というニュース報道に際して(西暦2023年5月8日記載)


「発達障害」というレッテルを貼っているのは精神科医ですから、精神科医が「発達障害」であるとレッテルを貼る限りにおいて当該の人物は「発達障害」でしょう。只、精神科医が「発達障害」とレッテルを貼るのには根拠がありますから、その根拠が社会的に妥当であると見なされる限りにおいて、その該当の人物らに対する排斥が起こるでしょう。つまり、それが「発達障害」であろうが発達障害と見分けがつかない「発達障害もどき」であろうが、(社会的に(な))排斥が起こるという意味では同じことです。それが「少し手がかかる子」でも同じことでしょう。つまり、「発達障害」の子供たちであろうが「発達障害」と間違われる子供たちであろうが、医師の治療を受け得るかそうでないか、というだけで、物事の本質的には同じです。私は、自閉症のスペクトラムの病気とは違ったところにある「統合失調症」という精神の病気ですが、被排斥者としての自覚はある程度あるので、医師の治療を受けています。社会生活を送る上で、あまりまともな人達に迷惑を掛けたくないというのもありますからね。




「ADHDの子供の注意力も改善した…サプリメントで手軽に摂れる「脳によい油」の驚きの効果」というニュース報道に際して(西暦2023年6月5日記載)


サプリメントを飲んで改善するようなのはADHDではないってこと。分かる?医師がその「病状」をみて病気だと定義出来ないってこと。もし、それでADHDの症状が改善されるのならば、医師が診察において該当のサプリメントを出すはず。しかし医師はそんなことは行わない。医師は医薬品の投薬によって当該の患者を治療しようとするだろう。特に精神科の医師が定義する精神病というのはそういうものであるということ。可も不可も無い、精神病患者として取り扱われているヒトというのはそういうヒト達であるということ。

例えば私は統合失調症患者だが、スキゾフレニアというのは精神科医による定義なので、精神科医が私Shinpei Sugiura(杉浦真平)に対してスキゾフレニアであると診断結果を出している限りにおいて、「私Shinpei Sugiura(杉浦真平)はスキゾフレニアの患者である」はtrueである。精神科医が携わる精神医学を採用したくないというのであれば、その様に自分で取り決めればよいであろう。その結果被る社会的不利益の存在とここでの議題とは(基本的には)別問題である。「精神科医がShinpei Sugiura(杉浦真平)に対してスキゾフレニアであるという診断結果を出しているからといってShinpei Sugiura(杉浦真平)がスキゾフレニアの患者であるとは限らない」はfalseである。残念ながら、定義というのはそういうものである。私は、個々の精神科医を全般的に信頼しているかと問われた場合、必ずしも是とは答えられないが、精神医学は信用している。




「「ススキノ頭部切断事件」精神科医・容疑者父の“精神鑑定”は正しくできるのか 鑑定医に見解を聞いた」というニュース報道に際して(西暦2023年9月2日記載)


精神医学における定義を知っているヒトを精神病であるかそうでないかは定義出来ないということ。医師がその「病状」をみて病気だと定義出来ないということ。もし、仮に人工知能やコンピュータの類でこの事件の容疑者である精神科医の脳内を読んでいたとしても、同じこと。この場合該当の定義を適用出来るのならば、医師はその定義を妥当させるはず。しかし医師はそんなことは行い得ない。医師は医薬品の投薬によって当該の患者を治療しようとするだろう。特に精神科の医師が定義する精神病というものはそういうものであるということ。可も不可も無い、精神病患者として取り扱われているヒトというのはそういうヒト達であるということ。

ちなみに。私は統合失調症患者だが、スキゾフレニアというのは精神科医による定義なので、精神科医が私Shinpei Sugiura(杉浦真平)に対してスキゾフレニアであると診断結果を出している限りにおいて、「私Shinpei Sugiura(杉浦真平)はスキゾフレニアの患者である」はtrueである。精神科医が携わる精神医学を採用したくないというのであれば、その様に自分で取り決めればよいであろう。その結果被る社会的不利益の存在とここでの議題とは(基本的には)別問題である。「精神科医がShinpei Sugiura(杉浦真平)に対してスキゾフレニアであるという診断結果を出しているからといってShinpei Sugiura(杉浦真平)がスキゾフレニアの患者であるとは限らない」はfalseである。残念ながら、定義というのはそういうものである。私は、個々の精神科医を全般的に信頼しているかと問われた場合、必ずしも是とは答えられないが、精神医学は信用している。

裁判沙汰になる場合は、裁判官に拠る鑑定医に対する権限の任課が問題となるのだろう。つまり、法廷が存在するからこそ、精神科医に因る判定は(そこで)生きることになる。それ以外の場面では、患者(と見做され得るヒト)は精神科医の判断を拒否拒絶し得るということ。

精神科医が患者(と見做され得るヒト)を「封殺」する威力とそれの可効範囲というのは、正の相関関係にあるだろう。この事件では、被疑者の精神科医にインテグレートされたそれが返ってきたということだろう。特にそれが危機に瀕している場合、自己同一性はそこで重要な役割を果たす。

(西暦2023年9月2日11時0分記載)




「医学部生の教育カリキュラムが医師の「共感力」を奪っているという指摘」というニュース報道に際して(西暦2023年6月12日記載)


「医師が患者の声に耳を傾けて寄り添うことを可能にする「共感力」は、患者に対して質の高いケアを提供するために重要で」はない。「共感」で病気が治るのか?本当にこういった記事の載せ手はナメているとしか言い様が無い。医師の仕事は患者の病気を治すことであり、患者とのお友達関係を築くことではない。つまり、「当方は医師としてこういった治療を貴方に対して行えますが、どうしますか?」という意志表明が医師として妥当なものであり、「共感」はその限りではない。

例えば、

サプリメント(特定の育成方法含む)の投与で改善するようなのは発達障害ではないということ。分かる?医師がその「病状」をみて病気だと定義出来ないということ。もし、それで発達障害の症状が改善されるのならば、医師が診察において該当のサプリメントを「出す」はず。しかし医師はそんなことは行わない。医師は医薬品の投薬によって当該の患者を治療しようとするだろう。特に精神科の医師が定義する精神病というのはそういうものであるということ。可も不可も無い、精神病患者として取り扱われているヒトというのはそういうヒト達であるということ。

「発達障害」というレッテルを貼っているのは精神科医だから、精神科医が「発達障害」であるとレッテルを貼る限りにおいて当該の人物は「発達障害」だろう。只、精神科医が「発達障害」とレッテルを貼るのには根拠があるから、その根拠が社会的に妥当であると見なされる限りにおいて、その該当の人物らに対する排斥が起こるだろう。つまり、それが「発達障害」であろうが発達障害と見分けがつかない「発達障害もどき」であろうが、(社会的に(な))排斥が起こるという意味では同じことである。それが「少し手がかかる子」でも同じことである。つまり、「発達障害」の人物であろうが「発達障害」と間違われる人物であろうが、医師の治療を受け得るかそうでないか、というだけで、物事の本質的には同じである。

「共感」の弊害は、さっと考えただけでも、これだけ列挙される。

人種差別ということにおいて、アメリカ人と日本人では少し感覚が違うようである。アメリカ人は"color of skin"を専ら題材として取り上げる。日本人は、少なくとも現代の日本社会に生きる者達は、「顔」であろう。これには様々な意味があり、白人さんにも黒人さんにも美形のヒトも居りそうでないヒトも居るが、黄色人種であり且つ日本人である母集団において造形は二義的である。面子の世界だけで生きていけるのであれば誰も苦労しないが、おそらく日本古来から続く本音と建前のフェノメノロジーが、共感や共苦といった、それこそ文化科学的な側面から考えるのであれば味噌や納豆といった食材に在るように(食べれば分かる)、極めて概念として当該的なtextに社会的に支配されながら、緩やかなグラデーションを描く。イギリス人は皮肉も理解するだろう、階級社会だからである。

私は自閉症のスペクトラムの病気とは違ったところにある統合失調症という病気の患者(発達障害患者ではない)だが、スキゾフレニアというのは精神科医による定義なので、精神科医が私Shinpei Sugiura(杉浦真平)に対してスキゾフレニアであると診断結果を出している限りにおいて、「私Shinpei Sugiura(杉浦真平)はスキゾフレニアの患者である」はtrueである。精神科医が携わる精神医学を採用したくないというのであれば、その様に自分で取り決めればよいであろう。その結果被る社会的不利益の存在とここでの議題とは(基本的には)別問題である。「精神科医がShinpei Sugiura(杉浦真平)に対してスキゾフレニアであるという診断結果を出しているからといってShinpei Sugiura(杉浦真平)がスキゾフレニアの患者であるとは限らない」はfalseである。残念ながら、定義というのはそういうものである。私は、個々の精神科医を全般的に信頼しているかと問われた場合、必ずしも是とは答えられないが、精神医学は信用している。



「「その本つまらないよ」「そんな健康法ダメ」自分流の押し付けはつきあいの幅を狭くする。精神科医が教える相手を不快にしない会話のコツとは」というニュース報道に際して(西暦2023年6月6日記載)


(今は簡単に洋書が手に入りますけど)日本国内で出版されている書籍には読まない方が良いものも沢山在りますし、間違った健康法で肉体に負荷を掛けていたら身体を壊すでしょう。ネットに関しても、このコミュニティーもそうですが、クラッカーによるフェイクニュースが多々溢れています。反社会的人間は反社会的人間で徒党を組んで一般市民を襲いますからね。奴らは色々と「作って」ますよ。……例えば私は「その本つまらない」とか「その健康法ダメ」とかそういった事はまず他人には言いませんけど、そういったことは、「度量」がどうこうでというよりは、自己責任(論)に基づく「どうでもよさ」ではないでしょうか。日常生活を送るのにも支障がある知的障害者のヒトでもない限り、それぞれの当該のヒトが意思決定を行っているわけです。私は、そういったことについて他者から答えを求められても、無視するか自分で考える様促すということしか行いません。そもそも、精神科医の先生達自体が、自らの判断に拠り「精神障害者」というカテゴリーを設定して、他者への物事の押し付けに走る人達ではないでしょうか。私は統合失調症患者ですが、確かに私の目の前に統合失調症患者を自称して出てきたヒトの中には「こいつロボトミーで脳の前頭葉ぶっ潰したろか」と思わずにはいられないような重篤なヒトも居ました。しかし、基本的に現代社会人における社会生活は自己責任で成り立っています。社会秩序の維持は医師の仕事ではありませんが、警察が犯罪者を現行犯で捕まえるのと同じ様な感覚で精神障害の判定をヒトに押し付けていては、(逆説的に)社会秩序の維持も為されないということになるでしょう。精神医学における真の治療が為されるには、ヒトビトが自己責任を透過出来るようにならねばならないということではないでしょうか。




「元少年を鑑定した医師「精神障害があるかのように装っている可能性が非常に高い」というニュース報道に際して(西暦2023年6月9日記載)


医師が「鑑定」「判定」出来るのは、精神障害が在り(場合)その内容に言及するところまで。もし仮に、対象が精神障害を装っているというのであれば、その対象は精神障害者ではないので、その演技性について医師が言及するのは、感想等を垂れるのは勝手だが、公式なものとしては越権行為。もし仮に、対象が精神障害者であるというのであれば、これにおける医師の判断自体がナンセンスで在り得ないということになる(例えば、演技性人格障害等は明確な精神障害であると医師が取り決めているであろう)。つまり、それについて判断するのは警察や検察、ひいては法廷において裁判官が、ということになるだろう。基本的に現代社会人における社会生活は自己責任で成り立っている。社会秩序の維持は医師の仕事ではないが、警察が犯罪者を現行犯で捕まえるのと同じ様な感覚で精神障害の判定をヒトに押し付けていては、(逆説的に)社会秩序の維持も為されないということになるだろう。精神医学における真の治療が為されるには、ヒトビトが自己責任を透過出来るようにならねばならないということであるだろう。

私は、この医師に拠る行いを見て、気持ちの良いものではないと感じる。グロテスクとまで言うと、逆に(の)露骨な差別に該当するし、そういう表明を行う気は無いが、やはり生物(学)的な本能を無理して押さえることは出来ない。

何故障害者が障害者なのか?該当の障害者の人が持つ該当社会における障害者の認定は、その人の権利であるということが出来る。例えば、それが如何に凄惨な事件であろうとも、犯罪の加害者を裁くのは司法であり、そのシステムに則って該当の人々が判断を下す。法は犯罪の加害者の為にある。もし加害者において法の裁きなど必要無いというのであれば、即時殺す云々というそういう世界である。それは私刑の世界であり、法治国家においては認められない。犯罪の被害者は本当に気の毒である。だからこそ、加害者に対して法の裁きを、というのが法治国家の理念だろう。「法は社会の反映である」。私はここで、障害者を犯罪の加害者だと言っているのでは勿論無い。

上述の「生物(学)的な本能を無理して押さえることは出来ない」というのは、障害者が障害者の権利を放棄しながら、且つ障害者の権利を主張する(かのような)、その矛盾に対してである。

米国のアンソニー・ファウチ医師が、米国のニュース番組で、COVID-19の処理について、「常識で」、「常識に則って」、さらには、「医師になるべく勉強している学生が影響を受けることは無い」、ということをおっしゃっていた。この場合、防衛という観点からして常識は大切だろうが、そもそも常識を逸する事態に我々は体面していたものであり、常識を基幹としたものの考え方だけで問題を解決できれば誰も苦労しない。そして、それならば、義務教育において医学を必修化してもらわねばならない。現実的に考えて、それは各人の知力や労力の問題で不可能であり、もしそうなったらば医療技術が社会資本ではなくなる。それこそ医療社団法人ではなく医療法人社団を作らなければならなくなるというあたりで、医学や医療技術が特権階級の奢侈品へと堕ちる。

それは、一種の障害罪だろう。

自らの衝動をコントロールするのが下手なのは、私の致命的な欠点である。それは、物事における愚鈍なこだわりだったり、酷い場合は日常生活における何らかの支障だったりするだろう。脳内で自らを鈍化させるその「物語」は、おそらく唯名「統合失調」であらわされる。自己強化を含めて、それを何らかの形「に」昇華させることが出来れば良いが、悪魔の誘惑にはそう勝てるものではない。自分の中の悪魔と格闘するにおいて、虚無主義的な社会構造との闘争ということがある。社会は法廷ではなく、もし社会が法廷であるというのならば、(物理的な)法廷など必要あるまい。ナチスにおける虚無主義とは、アドルフ・ヒトラー一人のことではない。「だから」、ヒトラーは全てを破壊へと導いたのである。ヒトにおける憎悪を解放した挙句、ハーケンクロイツは戦場そのものであった。ハーケンクロイツの紋章は、ヒトにおける憎悪を(象徴もしくはそれを形而下へおろした形で)汎社会化したものであった。ナチス第三帝国において、社会の本質は戦場であった。BerlinがGermaniaと改称されて為されるアドルフ・ヒトラーの「千年帝国」の夢が具現化される限りでは良かったかもしれないが、現実はそうではなく、外部においては戦争、内部においては廃墟の製造という只それだけのものであった。外部性の内部化などと云えば聞こえは良いが、実際に行われていたのは、物理的にも非物理的にも国家国土を破壊するという只それだけのものであった。歴史的事実としてのナチスが行った事というのは、(逆説的に)内部性の外部化であり、そこでは、crash to createの繰り返しが現象している。ナチスのナチスである由縁が「それ」を招いたのである。もし、"Mein Kampf"(「わが闘争」)ではなく、「真に」外部性の内部化が執り行われていたらば、ヒトラー少年の夢も叶ったかもしれない。ヒトラーの行動原理は、人々を云わばないがしろにすることであった。人々が居るが故に、ナチスにおける虚無主義的なエネルギーによって、人々は疲弊し、廃墟の製造が招かれたのであった。…人々が居るが故に人々が疲弊する?それは、まさに、民主主義の本質(の様)ではないか?「二度とやるな」とは、ナチスが残した教訓であるが、歴史的事実の上に歴史的事実は積み重ねられ、もちろん、現代の「民主主義」社会も跡を引いている。歴史学者のE・H・カーは、「歴史は科学だ!」という様な内容のことを言っているが、ダイナミックな歴史のうねりの中で、「それ」は生き物の様に存在している。judgementの存在意義が「被される」場合、人が社会を形成する以上、そういうことではないか。




「「子宮を返してほしい」 …強制不妊 国に奪われた”人生”闘い続ける女性」というニュース報道に際して(西暦2023年6月12日記載)


確かに、障害者のヒトは子供を上手く育てられないだろう。何故障害者が「障害者」なのか。しかし、肉体を不意に傷付けられて良い筋合いは無い。そもそも、何故この人の体に障害が発生したのか。…昔はこういう不幸な人が大勢居た。




「障害のある男性に「殺処分でいいやん」とネットに投稿、「差別の意図なし」と争う姿勢 前橋地裁で口頭弁論」というニュース報道に際して(西暦2023年6月29日記載)


それが挑発であると分かる挑発に挑発としての効果があるのか、っていうね。だからこそ、「『差別の意図なし』と争う姿勢」なんでしょ?
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