「精神科医が教える 誰かの悪口を言いたくなったら…不満で自分を腐らせる人の共通点」というニュース報道に際して(西暦2023年4月27日記載)
ヒトは、社会生活を送る上で、物事について具体的に考え、問題の解決を図っていきます。ここで、合理的に考えられないヒトは、問題解決能力が低いということになり、その社会生活に支障が出たり、人間関係においても齟齬や軋轢を生じさせたりしてしまうかもしれません。
つまり、同じ悪口でも、例えば、何らかの根拠ありきで「あの人は愚かな判断をすることが多い人だ」というのと、ただ単に「クソ、クソ、ダメ、あいつバカ」というのでは、全く違います。これにおいて、後者だけでなく前者も悪口の範疇に私が含めているのは、もちろんいたずらに言わない方が賢明である事だからということです。
社会生活を送る上での必要概として、具体的且つ合理的に物事を考えていれば、上記前者の様なものは出てきても、上記後者の様なものは出てきません。つまり、ここで精神科医がおっしゃられている依存性が高かったり「排泄」と形容される様な悪口というのは元来的に社会的な人においては出てこない、というか、あり得ないものです。
つまり、ここで精神科医が問題の解決策として提起している「どうしたらいいのか、一緒に悩む、一緒に考える」ということ自体がナンセンスであるということです。何故ならば、元来的に社会的な人は既に具体的且つ合理的に物事を考えており答えを出しているからです。それに基づいて行動することに人々は自らを依拠しています。それをポジティヴと呼ぶのは精神科医の勝手ですが、これはポジティヴだとかネガティヴだとかそういう問題ではないでしょう。
「【精神科医が教える】 他人の意見を否定してくる人の本性」というニュース報道に際して(西暦2023年5月25日記載)
精神科医はカルテを作っている。彼らはそのカルテによって、私にとって利となること、そして自分達にとって利となること、を、行っている。(ということは)、もちろん、診察室の外での彼らは私の敵である。別に、私が、職業人としての彼らしか知らないのであれば、何も問題は無い。「しかし、そうではないな」、と、私が判断する限りにおいて、彼らはそこを突いてくる。「呑まれろ」と彼らは言っている。私の判断は、もちろん、具体的事項による。彼ら精神科医は、まず、そこを(から)突き崩そうとする。それが良く発現すれば良い。それは、一種の倒錯による治療であろう。しかし、生物としての本能によるものまで是認されてしまっては、ヒトが織り成す社会に組み入れられることは難しいだろう、彼らも私も。
ちょっと現実的な話。精神科医の患者である私に関する扱いというのは、基本的に、まず、均質化である。私が精神科医に対して否定的見解を抱いている限りにおいて、彼らも私に対して否定的見解を抱く(というポーズをとる)。つまり、彼らは、患者である私を診察しない。しかし、彼らは、私が、彼らをコミュニケーションの対象としている限りにおいて、私とコミュニケーションを取る。つまり、彼らは、いくらでも私に対して診察室内で嘘を吐くし、場合により私を侮辱したり、私に対して危害を特定の医薬品の投薬や特定の暴力的手段を用いていくらでも加えてきたりする。彼らは、もちろん、法治圏外ではない。私の過去の経験から言うと、彼らは殺人罪では捕まっても傷害罪では捕まらないらしいが、ひたすら私刑という形で患者である私を裁こうとする。ここで、罪の重さという概念が出てくる。しかし、残念ながら、それが為されるのは法廷においてのみである。先述の通り、社会が法廷であるというのならば、具体的な物理的法廷など必要無い。それが為されるのは、ナチス支配下におけるドイツの(様な)社会においてのみである。法律Aと法律Aではない法律Bが存在するとして、とある特定の個人が法律Aに違反したからといって無条件に法律Bにも違反しているという事にはならない。法廷が存在するという法Xが違反されている場合において、法廷が存在しないという法Yが違反されている事になるが、それは無条件降伏の世界である。
日本人の欠格というのは、人間関係ばかりに気を取られ、(それが捨象された)物事を具体性をもって考えないというところにあるのではないでしょうか。具体的な内容が無ければ、例えば政治家の誤りを追及することも出来ません。そこで、日本人に特有なものとしてあらわれるのが、「理由後付け」です。もう、相手を叩き潰すことが第一義として来てしまっている。だから、まともな人達は誰もそんなもの相手にしない。漫画家浦沢直樹氏の漫画作品「MONSTER」で描かれている様に、優秀な漫画家ですらもが、そういった視点で物事を捉えてしまいそう描いてしまう。
その日本人の悪しき特質の最たるものが、太平洋戦争中の「竹やりで空をつついてB29をうち落とせ」ではないでしょうか。「理由後付け」もはなはだしい。程度問題ということで個々人の防衛力には限界があるということでしょうが、それは世界の自浄作用でもあります。「後天的に」それを為そうとしているのが日本であり、竹やりで空を突く真似を人民にさせながらB29を落とそうとしたのは象徴的です。
我々日本人においては、罪と罰の具象化が為されています。もし、我々が、その具現体であれば、救われ様がありませんが、我々日本人には先逸的に血統維持が為されており、例えば、我々が外界と隔てられた島国の住人であるということもその一つです。それが牢獄であったかどうかは私は知りません。しかし、少なくとも、歴史上はそうではないでしょう。その点、ユダヤ人が統合(regenerate)の世界に生きているのならば、日本人は分裂(degenerate)の世界に生きています。種の保存という場合、それはregenerateです。ヒトの集団の二義性ということにおいて、それは日本人の行動原理や皇統維持概念と関係しているでしょう。その、regenerationとdegenerationの二面性が、(特には天皇制ということにまつわって)日本人において無尽蔵のエネルギーを生み出すということかと考えられます。太平洋戦争は、良くも悪くも、それの具象化が為された一例です。
にもかかわらず、日本はいつも「(我が国だけ)被害に遭った!被害に遭った!」の一点張りです。……そうです、「被害に遭った」のは紛れもない一般市民なのです。少なくともこの点に関して、主張するのは一般市民ではありません。
何故日本(に)だけ被爆国なのか、その理由について考えた事がある者がどれだけ居るのでしょうか。
何らかの手法によって、実際の認識と肉体が自らに対して表出するサインの間にズレを与えて、対象の肉体を犯していくという攻撃の仕方が生物(を操る)学的に可能であるかもしれない。これは、もし出来るとしたらば、生物学的にだけでなく社会学的にも可能であろう。後者の場合でも対象の身に危険が及ぶことは間違いが無い。犯罪の被害者や加害者に仕立て上げられたり、場合により「原因不明のスキゾフレニア」だったりするだろう(…というのは、もはやスキゾフレニアの内逸(jurisprudence)にどんどん変遷が加えられているということである)。その様にして現出される、例えば新しげな「妄想」について、これを食い物にする輩というのが居る。例えば、当の精神科医である。精神科医が何を研究しているのか私は厳密には知らぬ。只、一種の社会適応と平行してのアラワレを精神科医が取り沙汰してネタにしているのは間違いが無いであろう。「(抗精神病)薬によるコントロールは出来ている」という患者へのたしなめも精神科医のやり口の一つである。薬効は在るだろうが、この件に関しては、それだけである。「良薬口に苦し」という諺の通り云われるべきものであっても、その薬効部位が脳である場合、それは必ずしも当てはまらない。「苦い」か「苦くない」かが判断の基準として為らないからである。
~コメントに返信~
その人が他人の意見を否定するという場合、無根拠に非難するという場合と根拠があって批判するという場合とあると思われますが、後者はともかくとして前者に及ぶのは「甘やかされて育ったお坊ちゃん(タイプ?)」に多いことは否めないと思います。別のコメントで発達障害患者の人達がどうこうとおっしゃっている方がいらっしゃいますが、彼ら(発達障害患者)はね、とにかく耐えられないというか、「故意に」「ワザと」ということがあまり理解できない、謙虚だとか謙虚でないとかではなくて、「こうしたらもっと良くなりそうですね」というアドバイスも、その意味で、彼らにとっては苦痛でしかないのではないかということです。私は当事者ではないのでちょっと断言は出来ませんけどね。