「「男の子」の子育て 英語ではなく教養が大切なワケを教育ジャーナリストが解説」というニュース報道に際して(西暦2023年4月24日記載)
人工知能その他のデバイスでヒトの言語使用能力がおおむね(?)代替できる昨今、文化的土壌に関する素養が必要になるというのは私も当たり前かと思っています。ただ、例えば私が学生だった頃には上智には市ヶ谷キャンパスに「比較文化」という学部がありましたけど(今は無くなっちゃったのかな?)、私は自分のルーツを語る上でやはり先方の土壌についてもある程度知っておいた方が妥当なのではと考えます。文学的なものの見方というのは、当該の文学的テクストを取り上げる上で、作家の個人的体験や生きた時代背景などを多義的に考慮し(それについての)理解を深めていくというものだと思われますが、「(それぞれの)異文化同士のコミュニケーションという文学的テクスト」が理解される上で、テクストの読み方というものが重要になってくるのではと私は考えます。それはもちろん具体的な言語使用能力に限ったことではない。海外に興味の無い人においては、外国語使用能力なんて大した問題ではないということになるわけですよね。むしろ彼らの方が、(母国語を用いてものを考えている分?)文学的テクスト(の読み方)に精通しているということにもなりかねない。外国人の人たちにしてみれば、「異文化を知っている」日本人よりも彼らの方が価値があるということになったりもするというわけですよね。つまり、逆説的に、知らない方が知っているという矛盾であるかのようなことが起こると。ともかくも、まずは足場を固めてというところからが大事だということですよね。
ところで、
日本の文化に興味を持ってくれて、例えば来日する等で積極的に我々にアタッチしてくれる外国人の人たちは、云わば「親日」な人たちです。彼らと対するにおいては、彼らの文化への精通度や外国語会話能力は確かにあまり重要ではなく、彼らが日本語がペラペラであるというケースもあり、何よりも我々について知りたいという能動を彼らが持ってくれていることが彼らと我々との相互扶助をもたらすでしょう。
ところが、こちらが(ある種一方的に)向こうに興味を持っている場合、彼らの文化への精通度や外国語会話能力は重要となってきます。彼らはこちらには殆ど興味がありません。「ファッキンジャップあっちへ行け」と言われて追い払われることでもない限りは、彼らは我々を受け入れてはくれるでしょうが、彼らは我々が彼らと同じ土俵に立っていると見なしてきます。彼らのホームグラウンドで、こちらはアウェイの、ゲームです。実際、彼らは、旅行者に対してお土産品(彼らの文化)を積極的に売ろうとしてきたり、私個人の経験においては旅先で英会話能力が未熟で「あなたが何を言っているのか分からないわ」と言われた事があったりします。
英語のアビリティから見えてくる自国文化への理解といったことも在るのではないでしょうか。確かに、「海外に通用する」ことは必須ではないでしょうが、異文化・自国文化その他色々なものを知ることで見えてくることもあるでしょう。それが「比較文化」でも「国際教養」でもいいですが、教養を身に付けることの利点というのはそういったところにあるのではないでしょうか。