「NHK大河ドラマは史実とはあまりに違う…最新研究でわかった徳川家康と正妻・築山殿の本当の夫婦関係」というニュース報道に際して(西暦2023年4月23日記載)
ドラマはドキュメンタリーじゃないんだから、史実に基づかないのは当然として、そもそも、史実、史実、と言われるそれだってドラマですよ。実際にその当時に何があったかなんて、TPOが合致してないと分からない。特に文献資料となると、後付けなんていくらでも出来るでしょ。だから、考古学者の中には文献史学を毛嫌いする人も居ます。その考古学も、例の「神の手」事件の様にいくらでも捏造が効いてしまう様ですが。
また、「歴史上」というのは、そもそもそういったドラマ性を前提としているというのもある。皆で、そうやって、人類の存続に都合のいい歴史を作っている。今度、北野武監督の「首」という時代劇の新作映画が放映される様ですが、実際はこんな殺し合いの風だったんじゃないかということが描かれているみたいです。もちろん、北野武さんは現代に生きている方ですから、その映画もドラマの領域ということになりはしますが。
「本当に強かった日本 時代劇とは違う!実は実力主義だった江戸時代 働きに応じて頻繁・柔軟に減封や加増、有能な人材の積極的登用も」というニュース報道に際して(西暦2023年6月12日記載)
武士なんて当時の人口の1%位(にも満たなかった?)しか居なかったわけだが……。あくまでそれだけの上層部(?)の中での話でしかない。しかも、賄賂その他汚い手が横行し、格下げ格上げされる「公式の」理由だって滅茶苦茶に理不尽なものである。何処が実力主義なんだか全く意味不明。尾張藩の強欲を成敗し、倹約を旨とした8代吉宗がそれに水を注してやっとその流れが止まったという見方も出来る(自分の采配だけでやり繰りしようとしたのはそれこそ「実力派」の吉宗の業という見方も出来るかもしれない、場合により)。もし証拠があれば。只、別所でも書いたが、そもそも、史実、史実、と言われるそれだってドラマ。実際にその当時に何があったかなんて、TPOが合致してないと分からない。特に文献資料となると、後付けなんていくらでも出来るでしょ。だから、考古学者の中には文献史学を毛嫌いする人も居る。また、「歴史上」というのは、そもそもそういったドラマ性を前提としているというのもある。皆で、そうやって、人類の存続に都合のいい歴史を作っている。
余談だが、吉宗的な人間というのは、「そういう」社会的立ち位置で社会に登場するから、少なくとも歴史上、「生き残れて」いる(た)という側面はあるだろう。そうじゃなかったら、あまりに我(欲)が強すぎて、ひょっとしたら古代ギリシアとかではそういったヒトばかりだったのかもしれないが、近現代へと移行するに従って、社会的に排斥されて、野盗へと身を堕としたりするケースも多々あったろう。ヒトとしての破壊衝動が強すぎるとかね。只、やはりそういうdistinguishedな社会的立ち位置でacquiredとして登場するから、それに相応しく能力を発揮する(し得る)ということもあるだろう。
そういうヒトとしては、例えば、日本人だと、政治家の小沢一郎氏だとか。あの人は剛腕で有名でしょ。後、分かり易い偶像としては、ミュージシャンの氷室京介さんだとか。お隣の国だと、習近平氏もそうだろう。欧米人では、ウラジーミル・プーチン氏や、アメリカだと元CIA長官で前国務長官のマイク・ポンペオ氏、あとドナルド・トランプ氏も該当するだろう。
ヒトは三大欲求のうち、性欲だけは我慢できるそうであり、睡眠欲だけは我慢できないそうである。残りの、我慢できるかもしくは我慢できないかという尺度では裁けない、食欲というものについて、食物を摂れることはヒトの幸せであろうが、只、それは罪深い。……ということを言うと、存在の問題にまで昇華させることができてしまい、欲というものが一義として取り扱われることが可能となるので、もはやそれは例えば凶弾で有名人を沈める精神障害者の世界である。…自殺?それはそれで、その世界では、肯定されてしまうのだろう。タナトスが精神の分裂をもたらさないという詭弁は「人を食ってる」輩の(一種の)avariceである。
「フロリダ州が全米2位に、NY州追い抜く-評価額ベース住宅市場規模」というニュース報道に際して(西暦2023年9月28日記載)
トランプ氏の効果もあるんでしょうか?マイアミ・ヴァイスっていうんだっけ?あの白いフェラーリ。カッコいいよね。
(西暦2023年9月28日13時15分記載)
「三浦瑠麗氏、ツイッターの「X」変更に持論「成長とはえてして旧世界の破壊の上に成り立って」」というニュース報道に際して(西暦2023年7月27日記載)
女性的な意見ですな、とは思います。確かに、crash to createの概念を規範とする、「そういう」ことというのは社会に存在するけれども、それを「成長」と捉え考えるのは男性の私には妥当であるか断言出来ない。望まない妊娠をさせられて、出産させられた女性が、その子供を愛せるのか?、というと疑問符が付くだろう。「愛せるのか?」というのは、自分の遺伝子の攪拌(かくはん)に役立つのか否か、ということ。そういうのは、少なくとも女性の視点からすると、生物学的にやっぱりおかしいでしょう。男性(ヒトのオス)と女性(ヒトのメス)で子供を作るんだから、(一般的には男性原理的と云われる)子種を撒き散らす的な生物学的生殖概念というのは、やはり、少なくともヒト程の知能を持った生物については、理想的でないと考えるのが妥当でしょう。私は以下の様な議論が大嫌いなのですが(つまり私も子種を撒き散らしたい的な性欲を理性で押さえているということ)、現状が最適であるというのは明らかにおかしい。嫌いであるというのは、(子供の様に駄々をこねても)現実を「それ以上に」変えられないということ。