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memo106

Proposing opinions to which everyone can apply is the effective way of protecting oneself from the death threats from others. This is not difficult but simple, and, for example, what is it? Paradoxically, all of them apply to the word, "Memento Mori.

Socrates is mentally ill if you ask me, but nations can be built at the expense of people like a twin-headed dragon of him on a cross. Death itself is repealed there. By what? That is a "delta." Like Socrates, the man who could not get "to be" or "not to be" got it at the last.

See how Socrates was obliged to choose between admitting to being a slave or giving up telling a lie to himself and stopping teaching others what he didn't believe in. Suicide solution is the greatest social lie. He had no choice but to commit suicide or admit he knows nothing.


(2024/6/9 13:56)
(2024/6/9 14:17)
(2024/6/9 15:12)




自己の表象としてのテキストを自己と同値で結び付けてしまう人というのが居る。例えば、「私が書いたこの文章の内容は論理的に正しいので私は自信を持っています」(以下A)と言う場合、「この文章の内容は論理的に正しいので私は自信を持っています」(以下B)でも「この文章の内容に私は自信を持っています」(以下C)でも(一般的な言い方をすれば意味が違う場合があるという事で)Aと同値ではない。A→BやA→Cという場合でも、A、B、C(それぞれ)という場合でも、そこにはテキスト化が成立している。それを、例えばA=BやA=Cを成立させてしまう人というのが居る。それはコンテクストの有視ではなくコンテクストの無視によって生じる。それらは総じて再テキスト化と呼ばれ得るものである。

私はそれを反社会的行為と見做しているが、何故人々は「自らの望み通りの事」に率先してコミットしようとするのか。それが人々が「自らが望まない事(態)」に陥る大元の原因であるという事を、理解している者と理解していない者(の違い)。前者は、現代化された社会主義社会の住人である。後者は、その快楽主義や破滅主義が金に拠って裏付けられていた、つまりは旧態依然とした大文字での社会主義社会の住人である。では、そうではない社会の住人とは一体どんな人々か。宗教掛かっていない世界の住人か単なる知恵遅れの集団であろう。アメリカという国においては、その二面性が顕著に存するだろう。後者については特に言及するまでもないので置いておいて、前者その「神の国」と称され得る様な特定の人々に拠る社会集団においては逆説的に宗教は必要とされない。というのは、人々はそこではあくまで自体的に宗教なのであり、コンテクストの有視が常にそこにはある。では、「アメリカ社会が世界の表象である」のか、「世界がアメリカ社会の表象である」のか。ともかくもアメリカ国に対して否定的な見解を述べるオランダのジャーナリスト、カレル・ヴァン・ヴォルフレン氏は、後者を(陰謀論めいたものとして(の))答えであると云っているが、答えは勿論前者である。ヨーゼフ・シュムペーターの言説においては、社会というものが自体的にコンテクストとして見做されていただろう。上記「理解している者」しかシュムペーターにおいては存在しないのである。それがどういう事であるか、(少なくとも語義上の)Nichtseinがそこでは生じる。それは、原理的には、オーストリア人である「総統」アドルフ・ヒトラーが「あいつはユダヤ人だ」と云うのと同じである。ナチスというのは、「理解している者」と「理解していない者」に拠って為されていたのであり、フランツ・カフカが作品を残し、「ウィーンの恐るべき子供」として評されたオーストリア人ヨーゼフ・シュムペーターが自身の論を発表したその場で、アドルフ・ヒトラーは「為されていった」。自虐の精神がヒトラーについて妥当であったかどうかは分からないが、ハインリヒ・ヒムラー率いるSchutzstaffelが唯一ヒトラーに要望した事があったとしたら、それは「蔑(ないがしろ)にしてくれ」であっただろう。ヒトラーは鎮座する。ゲーリングは威を放つ。ゲッベルスが煽り、ヒムラーが消す。そうして当時ナチ党は社会を骨抜きにしていった。

教育というのは、そもそも、ヒトの本質を変革する事に根差したものでは(あり得)ない。その事自体を被教育者に教える為のものが教育であるという事も言えるだろう。私見ではヒトにおける自己同一性というものがそれに該当するが、最初からヒトにおける非変逸的なものに期待をしていないから、皆働くのである。そうでなかったら、ヒトにおける非変逸的なものに期待をしている人々にとっても本末転倒であろう。「自分だけが」という時代はもう終わりを告げている。それが立ち行っていたのが、日本の左翼全共闘世代の何某かもしれないが、あんなものは只単にスキゾフレニックである。私はここでホロコーストを肯定しているのではない。それを否定しているのである。

現在私が認知認識している世界が虚構(のもの)であるかそうでないかという事について、私はあまり興味が無い。…関係(が)無いからだろう。私という客体が何かという事はここでは置いておいて、私という客体と私という客体以外の客体は別のものである。…私の人生は行(ぎょう)であった。私に恐怖心があまり無いかと考えられるのは、行(ぎょう)の最中それについてそれであると気付かないからというそれだけの事である。それを言い出したら、私の苦痛は何処からやって来るのかという問いに答える事は容易である。「『それ』に気付かないから」である。


(2024/6/9 16:59)
(2024/6/9 22:34)
(2024/6/10 21:53)
(2024/6/11 20:30)




(他者の人間性について…?)「何でアイツってああなの?」という問いはナンセンスだろう。そうなっているのだからどうし様も無い。それに精神異常のレッテル貼っていい様にしようとする精神科医も、暴力まるけにして殺そうとするマフィアも、どちらも一緒。先天的な例えば遺伝的要因で当該人物の全てが決まっているのだとしたら、社会問題など起こり得ない。全部決まっているのだから、生まれた時点でコイツは駆除コイツは生存と区分けしてしまえば良い。というか、そうなる。そもそも性交を行って子供を作る以前の段階から行動の概念自体が無く選択行動云々も在り得ない(被選択が為される事も無い)。ヒトは精神を病む事も有り存在概としてのマフィアとの付き合いも有るだろうが、特定精神科医や特定マフィアに自己の全てをコントロールされる理は無くそれが行われるのであるとすればそれは純粋な(社会的)殺人であるという事。

上述の様な(社会的な)殺人者である精神科医やマフィアに対して、貴様らアウトローに法の裁きは必要無い、法律は貴様らを守らない、というのもまた間違っているだろう。「駄目なものは駄目」という事であって、自分の子供を虐待する親の(その)子供が虐待されるのは、残酷な様だが、然りな話である。(無根拠にも)完全に信用出来る対象である何らかの他者が存在するというのであれば、そもそも法など必要あるまい。その様に、ナチスはアウトロー社会を法廷化してそれ以外の人々に対した。そこに「一般」の概念はきちんと在った。逆説的にそこに在ったのは誰もが平等で「差別の無い」社会だったのである。結果どうなったか?ヨーロッパは焦土と化した。「ここで六百万人のユダヤ人が殺された!」。これは当然の如く歴史的事実として証明されているものである。ヒトラーにユダヤ人の血が入っていた訳でもなく、それは学術的に(は)反証されている。


(2024/6/13 14:25)
(2024/6/13 17:53)




現在の中国では「罰金経済」と呼ばれるものがあるそうである。「飲食店での食器使用料徴収」だとか「学校での昼休み有料化」だとか、等々。一部日本のマスコミの報道にてとにかくそれを料金徴収側のもうけの為という理由後付けが為されている様だが、これはそうではなく、価格を課す事に拠ってそれを責任の伴う自由へと昇華させているという事でであり、それは(お金が掛かっている分)消費者に拠るモラルハザードの回避にも繋がり、つまるところ行動のタイムパフォーマンスを上げる為だという事だろう。上述の様なこれに色々と難癖を付ける報道があるが、全て顧客にとって不都合なサービスは利用されないという事がある。そこでは原理としてのinvisible handが綺麗に働いている。それを、「文化人類学的に中国人はこういう行動を取るものでありこういう行動は取らないはずだ」という日本人に拠る因縁付けめいた何でお前が決めるんだという酷い報道もある様だが。

日本の企業の儲けに対して賃金が上がっていないという、「人への投資」は何処へやらという状況がある様である。日本人は文化人類学的に社会主義的性向が強いので、とにかく抱え込む。企業も家計も、お金だけでなく様々なものをである。経団連の十倉雅和会長は「中長期トレンドで見る」という事を仰っているが、恒常性の強さという事では様々な局面でそれが鑑みられるので、これは妥当かとも思われるが、こう、日本人特有の心理的な「慣らし」みたいなものが在ると考えられる。ボラティリティーという事ではそれは極めて大きい。つまり、スパン(として)の明確性は極めて低い。そこを日本のマスコミはネタにするという形で持っていく。ネタにされる側もする側もどちらの行動も社会主義的性向の強さに基づいており、タチが悪い。

…思考のボラティリティーというのは定義され得るのか?スキゾフレニアの患者の私は、自分で自分の頭を使っていてよく分かるが、これが極めて大きい。だから、蓋然的には散発的なあまり飛距離の伸びないショットガンの様な感じ。リスクの概念の非常な高さが当該的に為って逆に足を引っ張っている。


(2024/6/13 20:13)
(2024/6/13 22:32)
(2024/6/13 23:02)




私の幼少期は嫌悪と恐怖によって満たされていた。それは、しばらく歳を取って、肉体の具体的な痛みとなって現れてきた。二十歳を越える頃には、(その)外形としての表象が露骨に歪んでいた。…サルのなれの果てがどれだけ「悪い」か、それは私の肉体を使って指し示されている様だった。ヒトから生物学的な自己同一性(だけ)が捨象される(だけだ)とこういう事になるのである。ヒトは、無論、自己同一性だけで成り立っているのではない。しかし、それが無視される場合、存在論的な言及はナンセンスなものとなるだろう。…ところで、ヒトから社会学的な自己同一性(だけ)が捨象される(だけだ)と、それは「神の国」のお話になるだろう。そこには、(逆説的に)、社会しか無いのである。「さあ、どうする?」と云わんばかりのその「問い」は、私の存在を存在論的に、今、ここで、問うている。自己に付けられた傷跡が自己の存在証明になる様な悲壮な生き物が、お話をひたすら語る。そこでの主人公は上記サルのなれの果てである。話の内容は、「それ」が「それ」であるのは何故かという事を、ひたすら、只「それ」と言っている知恵遅れに問い詰めるというものである。…私に云わせれば、善良人程悪質なものは無い。それは上記知恵遅れと同義である。そんなものは、只単に頭の中がお花畑なだけのところのものである。良い夢を。


(2024/6/16 16:50)




エニアグラムネタ。タイプ2とタイプ5を対比させて。この際、タイプ8は(少なくとも名義的には)捨象して、どちらも、共同幻想論めいたものから取り敢えず突き詰めてゆける。まず、「本当にものの分かった」(賢い)タイプ5におけるそれはどういったものであるのか、それが為されていない。アカデミズムはタイプ2の世界だが、それと比してであろうがなかろうが、為されたところのタイプ5の群と比して(その側面においてタイプ5はタイプ2の十分条件である)、「それ」をアカデミズムと呼ぶ訳である。


(2024/6/17 13:49)




「人の意見を気にし過ぎて」云々とか。(少なくとも文脈上の問題として)、何故、その、「人の意見の内容を無視して」、「人の意見を気にする」事が出来るのか私には全く理解出来ない。間違っているのであれば内容に反論すれば良いでしょ?そうでなければ適当に同意しておけば良い。何を考えているのか。

上述の「人の意見」云々について、人間関係上手過ぎるというかその人間関係が故に、「人の意見を気にし過ぎて」という事に為る様な。対人関係というのは一義化されがちなので、物事ベースを対人ベースが上回ってそうなるという。だから人間関係の為の人間関係に為ってしまう人達というのは居るという事だろう。

対人関係が一義化されるというのは、「あいつは好き」「あいつは嫌い」「近寄りがたい」「頼れるから仕事を任せたい」等々。確かに他者に対して抱く感慨というのはそう一義で単純という事は無い。しかし、そんな自分のエゴで他者を区分けして当て付けては先方に迷惑である上に、嫌がられるだろう。

だから、その、形態形成場理論ではないが、「場」というのは在るという事だろう。


(2024/6/18 15:06)
(2024/6/18 16:19)
(2024/6/18 16:26)
(2024/6/18 16:43)




「君は選ばれているからそこに居ろ」というとある人々のその発想を、私は、受け入れる事は出来る。もはや、私は、それを敵方に拠る社会性の否定だとも何とも云わぬ。只、あまりに犠牲が多過ぎる。ヒトは食い物ではない。動物の肉を食らいながらそれを主張するのは間違っているだろうが、只、私は自らの意思では動物の肉を食わぬ。乳は摂る。しかし、そこのところの問題ではないだろう。…私に飯を出す奴らが居る。飯は食え、そして地獄へ堕ちろ。私はそれが嫌で、一度絶食してそれで自殺しようとした事がある。しかし、それを他者に阻まれ否定されて精神病院へブチ込まれた。私はスキゾフレニアという事でそこの精神科医は私に障害者用の年金を出してくれた。しかしそんなものは地獄の沙汰でしかない。人が人を食らうその気狂いじみた世界を私は望まない。…アメリカというのは人の実力を正当に評価してくれる国の様である。その機会平等性の為に白色人種の人々が何とか歴史と共に作り上げた国である。そこで私が敢えて取り沙汰すのはプラグマティズムである。邪悪の者らに物理的な死を。…何故アメリカが、世界最強国なのか。…私は、いたずらに自分を持ち上げられて評価されたり、いたずらに自分を引き下げられて評価されたりする事を、好まぬ。私がゴミクズであるのならばゴミクズであろう。私は、「それ」が欲しいのである。誑かしは要らぬ。

養老孟司氏が、「頭の良さは社会的適応性で計るしか無い」と仰っていたが、この場合、つまるところ、社会的適応性というのは運(luck)の事だろう。私は運(luck)のパラメータというのは存在すると考えているという事だが、運(luck)も強さの内というのはそういう事である。…否、そう云うのも正しくない。…全てが縦一列で計られる世界。そこには組織の概念も何も無く、人はそれを地獄と呼ぶ。強さを計る必要すら無いのである。どう最も効率良く他者を欺き騙して食い物にするか。それだけの世界である。全てが固定されている、そうではない、その様な概念すら何も無い。そこは(その様な)虚無(主義)の世界である。それを「破壊衝動だけが胎動している」などと形容する精神分析家の解釈考慮も何も無い。養老孟司氏が解剖学者である事を職業としているのは、その様なものであろう。


(2024/6/18 17:28)
(2024/6/19 2:02)
(2024/6/19 15:55)




エニアグラムネタ、若干の経済学的見地から。

殺し合いという事について、タイプ7w8の場合、宣戦布告を行ってしまうという事がある。タイプ8の場合そうとは言い難く、他者を効率よく食い物にするにおいてそれよりも有効な手段は敵に自分を味方だと思い込ませる事である。相手を痴呆状態にするという事もそれにおいては有益だろうが、それだと道具としての価値が減免されてしまう為、あまり芳しくない。食料は多ければ多いほど良いからである。つまりタイプ8はタイプ2を増やすという行動を取る。タイプ7w8の場合、奇しくも単純に戦争を行ってしまうので、タイプ2を減らす方向へと傾くだろう。ちなみに、弱いものいじめという事では、これに感ける(かまける)のは、つまるところ、タイプ7w8ではなくタイプ7w6である(タイプ6w7までいくと、「弱さ」の基準が違ってくるかもしれない)。その点、「自分がそれであると指摘されるまで自分をタイプ5だと思い込んでいる」「少しは悪い人間も居ると思っている」タイプ2w3はタイプ8と混同され易いだろう。

ところで、タイプ8同士であれば上手く行くだろう。只、その「食料」を与え合う社会構成において、それの増産は必須である。つまり、タイプ2においてそれは当該的且つ本能的であるが、タイプ8も同じく人口を(は)増やそうとするだろう。つまり、その行動に際して能動的意思を持った「食料」を増やす者も居れば減らす者も居るという事である。…タイプ7は奴隷を必要とし、タイプ8は穢多非人を必要とする。ちなみに、タイプ9はモノを必要とする(だろう)が、そこにあるのは無垢無痛の分娩の様なものかもしれない(その点我々日本人はそう作られている、何故日本だけ唯一の被爆国なのか)。ともかくも、彼らに云われるべきは"Better watch yourself."という文言であろう。タイプ7はバースコントロールの補助に回り、タイプ8はバースコントロールに当該的に参加する様になるだろう。タイプ2はバースコントロールという観点から大切にされる様になるだろう。

私Shinpei Sugiura(杉浦真平)のエニアグラムのタイプはタイプ4w3(竜頭万里子さん「判定」済み)だが、確かに私の様な人間ばかりでは戦争になりにくいかもしれないが、競争が招かれにくい分、社会の(文明的な)進展に寄与する事も少ないだろう。…というのが一般的な民主主義社会における考え方である。しかし、現代化された社会主義社会の有り様が、それを覆してしまった。一体、社会の発展のスピードとは何か。イノベーションが、革新された技術が社会全般に渡って流布された状態をしてそう呼ばれるという考え方は、私には如何にも呑気な性善説であると考えられる。そのイノベーションなるものをもってして社会の発展の加速度が近世近代とに渡って上昇したというのならば納得である。しかし、それは果たして社会を良い方向へと導いたのか。実のところ、アメリカはそれで良くなった国家の一つであろうが、そうとは言い難い国々も世界中に存する。(特におそらくは昔の賢者達が)皆で皆を区分けして属性に応じて適材適所を施したのである。という事は、皆が皆民主主義社会の雄ではないという事である。「それを見切っている限りにおいて」私は民主主義社会の住人である。上記「呑気な性善説」の持ち主は民主主義社会の住人とは認められない。

タイプ2w3において、「自覚的性悪説に基づいた異端排斥」が為される。彼らの「皆が為っているから私も為っていいんだ」の全体主義的且つ偽善的な他者貶めというのは凄まじい。タイプ3w2の場合、「それ」はノミナリズムに基づいているだろうが、タイプ2w3の場合、「それ」はリアリズムに基づいているだろう。「自分にも甘く、他人にも甘い」連中が一体何を行うか?よく観察されるべきだろう(強制収容所を社会に設置するのはこういう連中であろう)。例えば、習近平氏はタイプ2w3だが、外部的に内憂外患という形で、それを行っている。彼は云わば中国国民を焚き付けているのである。ハインリヒ・ヒムラーはタイプ6w5だが、(外部的にではなく)内憂外患という形で、それを行った。だからあの様な惨劇が生じたのである。ところで、タイプ5w6というのは、囲われて幸せな人々である。彼らは、「それ」を徴収(徴集)してしまう。比して、タイプ9w8は、追いやられてそうなる。ヒムラーは「それ」を実践した。「生と死しか気にならない」様にされてしまえば、人は皆ああなるのである。一見してのところで、ヒムラーがタイプ2w3であるという説が在るかもしれないが、その成長の方向にあるタイプを考えると、ヒムラーは紛れも無くタイプ6w5の方であろう。

エニアグラム研究者の竜頭万里子さんは予てから(かねてから)これについて仰っていたが、ともかく、私(の性格タイプ)の立場から云わせてもらえば、人々に社会的キャラ立てを辞(止)めさせる事である。それ(で)はテロリストの餌食である。「穢多非人」「奴隷」「食料」等々、で、何があらわされているのか、人々にそれをよく考えさせ知らしめる事である。私Shinpei Sugiura(杉浦真平)はタイプ4でタイプ2の成長(統合、regenerate)の方向にある性格の保持者だが、私は彼らに「貴方方は貴方方の敵に犯されて食い物にされるぞ」と警告したい。ヒトがどういった社会関係上の構築物内に存しているのか、よく見ろという事である。特に、彼ら「食料」の場合、自己実現願望猛々しい。「それ」が彼らの弱点の第一義であるが故、私は忠告申し上げているが、彼らの中にはそれの自覚が無いまま「生きながら食われていく」人々も多い。

つまるところ、コミュニケーションなどというものは存在しない。セックスが最上のコミュニケーションであるというのは、ヒトのメスを処女懐胎させてみ(せ)ろという事であり、(最上の)コミュニケーションというのはそういうものであろう。コミュニケーションが必要とされないコミュニケーションが、すなわち柔道や剣道といった武道の如く、刃で相手を斬り殺す事の表象として存している事が、それの本質である。「付き合ってられるか」というセリフの表象でもそれは可能だろうが、ともかく、特に、弱者は自滅するだけである。…私も認めたくないが、残念ながら、ヒトのメスはヒトのオスより弱い。彼女らは、その分、危険になる。芸能人のネタ、ハニートラップ、様々「に」ヒトのメスは危険である。ヒトのメスというのは、当該的にリスクなのである。人口はそれの限界的な減少率がゼロになるまでは減るかもしれないが、無為にリスクを犯す必要は無い。


(2024/6/19 23:58)
(2024/6/20 0:41)
(2024/6/20 3:31)
(2024/6/20 10:22)
(2024/6/21 0:52)
(2024/6/21 1:59)
(2024/6/21 11:15)




憎悪というのは大切な感情である。例えば、英語でhatredと云うのと、日本語で憎悪と云うのが、同じ対象である(何らかの)客体を指し示している保障は何処にも無いが、つまるところ、我々日本人において何が問題であるのか。それは、自制の無さであろう。loveの一言でそれが為されるのか、私は英語が母国語の者ではないので知らぬ。…自制を失った場合、ヒトはどうなるか?「あるのわかり」がそこには無い、という状況が訪れる。そこでは、「わかり」だけが錯綜している。「わかりのあり」がそこには存するのか存しないのか、「自らが分かっているのか分かっていないのか」その者には分からないのである。…「hatredがそこに存在しない」という場合、それは「ない」という形で「ある」(事を分かられている)。それは正体不明と云っても良いが、ともかく、それは次に何が来るか分からない事への(快感に塗れた)欲望である。「それ」がhatredなのである。それを打ち消すのがloveであろうが、loveにおいて正体は明確である。それが"LOVE&HATE"と云われる由縁である。


(2024/6/22 16:36)
(2024/6/23 18:25)




この日本という国はそもそも、西暦1945年に滅びている。…当目、社会主義的に民主主義国家である事の擬態を、中国は非公式に行っており、北朝鮮は公式に行っており、日本ではそれが社会的常識としてまかり通っている(行うまでも無い)。日本という国は、社会主義国家として滅ぶ「まま」なのである。では、何故、その様な社会(主義)集団が主権国家として成立しているのか。それは、特にアメリカ国の管理下に実質あるからであろうが、果てまた日本の場合はその様な社会(主義)集団であるから、であろう。私は、日本人の内、一体どれだけの人々が無条件降伏の意味を理解しているのか存ぜぬ。その性質の社会性のみをもってして生き(延び)ろと、我々日本人は、(原子爆弾投下を始めとした一連の流れにおいて)全世界に命ぜられたのである。法律、経済の仕組み、文学的なものの見方、その他、特定の対象である何らかの客体についてこの国の人間はあまり(にも)真摯に取り合おうとはしない。三島由紀夫氏が「憂国」の一言で一体何を(言い)表そうとしたのか、(この国の)殆どの人間は理解せず、向き合おうとすら(も)しない。行き着く先は、酒池肉林の世界ですら無かった。そこで、日本人の、その生物学的な自己同一性の「美しさ」を表現する事だけが我々の生存目的となった。現在の日本の若者の集団での男女交際というのは、自分達が現代日本人である事の利点が存分に考えられた上での耽美的行動であると私には思われる。その意味で、「神国日本」はもはや甦っているのかもしれない。

つまるところ、ヒトが生きる為の社会ではなくなった、という事である。(その)社会の形成発展の為、ヒトが摩耗されていく社会、それを夏目漱石の如く耽美的に上手く集団行動へと昇華させている今の若者は賢くとも、そこではヒトの生存は(社会的)第一義とはされない。人々が「死は始まりに過ぎない」「死は終わりではない」という事を悟り知ったのである。…人々を裏切り続けてその過程として何時の間にか死んでいたら私はきっと幸せである。人生など全て作りものである。私は他人の人生には興味が無いが、自分の人生など叩き壊してやろうと思う。「やろう」というのは、「私」と「私の人生」は別のものであるという事である。私が自分を大切にしている事は間違いが無く、そして概して私は作りものを嫌いである。作りもの自体をではなく、その作り課程をである。基本的に、私は他者への依存というものを避ける。それについて、私は、自分が強者だとか云っているのではなく、他者に依存して裏切られたら様々な側面でダメージを受けるので、そのリスクを回避する為である。それはどの様に行動として具象化されるか?上記の様に、人々を裏切り続けて「その過程として何時の間にか死んでいたら私はきっと幸せである」。私は女を当てがわれても、「要りません」と言って断る、迷惑だからである。昨今、イスラエルの人々が、自国が捕えているハマスの人質を解放しろといって、デモ行進を起こしている。それでイスラエルの人質が帰ってなどこない事を承知の上での行動である(そうでなければ只の馬鹿であろう)。イランのハメネイ師は、シオニストとそれの協力者は全て敵であると言明している。ネタニヤフ氏は明確に右派だが、彼らイスラエルの一般市民に貴方方の敵は貴方方の味方ではないという事をいくら説明しても無駄の様である。永遠不変の、(その意味で)理想的な民主主義など無い、という事を彼らは理解しない。以下をどう解釈するかは各人の勝手だが、ヒトが分かり合う事など無い事が前提となっているからこそ現代の社会が出来上がった。


(2024/6/24 9:49)
(2024/6/24 17:50)




メラニア・トランプ元米大統領夫人が、2期目があっても自分はフルタイムではホワイトハウスには入らないと、言明している。…しかし、民衆の為に立ち上がったら都会住まいの高所得者層の市民にひたすら叩かれるというのは酷い話である。それは日本における私もそうだが、アメリカの高所得者層の市民はエリート(向け)教育を受けているが故に当たり前と云えば当たり前であろう。皆そうやって洗脳されていくのである。私の場合は、おそらくそれは彼らの本意ではなかったであろうが、精神科医らが薬物に拠ってそれを除去してしまった。勿論、その直接の要因としては私が自ら思索をすすめたという事があるが、おかげで、私は現在の様な考えを持つ様になった。しかも、そこでは(私の場合)そもそもの経済学的見地も失われてはいない。一体、教育というのはヒトの思考能力を減免させるのではないか?ヒトをレイプした挙句「わが師の恩」などと歌わせる教師共の御厄介には私はなりたくない。最近では、インターネット上に開設されている高等学校から海外の大学へと進学する子供達も多い様である。ファック野郎の相手をさせられた挙句(の)日本愚民に仕立て上げられるよりは、今の若者達は余程賢明な選択行動を取る様である。

しかし、私は新聞記事や(最近は読まないが)書籍等を読んで思うのだが、著名人知識人で、よくこんな知的レベルの低い人間がそれを名乗っているなと思わされる事が多々ある。それは、例えば東京大学や京都大学の教授であろうが、日本人だけに限らず、海外のハーバードやイェールやオックスフォードその他有名大学の学識経験者であっても同じ事である。彼らは必死に論文を書いて学識知識の輪を拡げているだけの人々に見える。彼らは、只単に専門の学術領域において知識や見識が深いだけであって、あまりにもものを考える力の無いもしくはものの見方の浅い(人が多い)という事がある。それを見越してか、私は、大学時代(から)彼らに排斥されたし(犯罪行為を働かれた事もある)、アカデミズムの領域にはそもそも進まなかった。この間、どこぞの大学の教員の先生で、「学術の終わりの始まり」と仰っていた人が居たが、この人工知能がインフラとして定着している昨今、そういう事で(も)ある。私はネット上にupしている文章について、人工知能は全く使用していない(全て自分で考えて文章を書いている)が、その私でもそういった見解を持つ。

連中は、社会における中所得者層や低所得者層の一員としてカウントされ働いている人達を本当に馬鹿にしている。自分らの見識のみにおいて、彼らを自分らのみに都合が良い様に裁き、それでご満悦である。特に経済学畑の場合それが顕著である。私個人の意見としては、別にそれならばそれでも良いが、ならば貴様らだけで社会を作れという事である。彼らの生存本能を無駄に煽った挙句、自分らに都合が良い様に労働力として利用するなという事である。当然、そこには、社会の上層に居る者が社会の中層下層に居るものを維持管理しているという思い上がりが在る。しかもそれは所得の額という基準に拠って為された短絡的な社会構成概念に拠る場合が殆どである。


(2024/6/25 0:01)
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Shinpei Sugiura
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男性

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