(結局のところのものとして)私Shinpei Sugiura(杉浦真平)に直接の危害を加えてくる者達に拠る攻撃の一つに、肉体に信を置かせないというものがある。一つのコンセプトとしての攻撃対象を(攻撃対象において)捏造して、それに攻撃を加えるのである。そこには、(ヒトが言語で表現出来るものの内)様々なものが詰め込まれる。…連中お決まりの攻撃手段であるところの幻術である。
その、アナログとデジタルの入れ替えにおいて、(言語によって)デジタルをアナログ化し、アナログを「コンテクスト(の一語)によって」デジタル化する、事が行われる。
(2024/5/3 14:45)
私Shinpei Sugiura(杉浦真平)はヘテロセクシャルである。(ヒトのオスとして)、ヒトのメスという場合、女性を好きと云えばそれもそうだが、女性の肉体を好きである。ところで、ヒトのオスの中には、男性として(?)自らより物理的にも社会的にも弱い存在である女性を(であるが故に)屈服させたいという男性が居る様である。また、ヒトのメスの中にも、女性として(?)その様な(に)男性陣に屈服させられる事を「それとして」嫌がる女性というのが居る様である。彼ら彼女らは、概してセクシストと呼ばれる。この連中には、肉体美という概念は通じない。在ってもそれは二義的である。その止揚された生物学的な自己同一性が、彼らにおける肉の軛となって、概ねそれは(広義の意味での)セックスへの依存という形で連中における衝動性を形作る。連中は、概して女性的である。「(結果として)その様な行動を取る事が多い分」、繁殖力も一般の個体に比べて強いだろう。…繁殖力などという概念はテキスト(one of the texturized)であり、「その意味で」経済学的である。…私の唯名を汚す者よ。
(2024/5/3 10:27)
私Shinpei Sugiura(杉浦真平)はヘテロセクシャルである。(ヒトのオスとして)、ヒトのメスという場合、女性を好きと云えばそれもそうだが、女性の肉体を好きである。ところで、ヒトのオスの中には、男性として(?)自らより物理的にも社会的にも弱い存在である女性を(であるが故に)屈服させたいという男性が居る様である。また、ヒトのメスの中にも、女性として(?)その様な(に)男性陣に屈服させられる事を「それとして」嫌がる女性というのが居る様である。彼ら彼女らは、概してセクシストと呼ばれる。この連中には、肉体美という概念は通じない。在ってもそれは二義的である。その止揚された生物学的な自己同一性が、彼らにおける肉の軛となって、概ねそれは(広義の意味での)セックスへの依存という形で連中における衝動性を形作る。連中は、概して女性的である。「(結果として)その様な行動を取る事が多い分」、繁殖力も一般の個体に比べて強いだろう。…繁殖力などという概念はテキスト(one of the texturized)であり、「その意味で」経済学的である。…私の唯名を汚す者よ。
(2024/5/3 10:27)
私が子供の頃、アメリカは「人種のサラダボール」であると、学校の社会科の授業で教わった。只、それは、生物学的な自己同一性に基づく(多様性に拠る)見解である。今回、アメリカにおいてアンチセミティズムに対抗する為の法案が議会で可決されたが、イスラエルの場合、それは、社会学的な自己同一性に基づく。ネタニヤフ首相は仰る、「我々は我々の下へ来る者何者をも拒まない」と。イスラエル人民には、各国の偉大な指導者達を称賛する者も居れば、戦場へ送り出されるだけの労働者階級の人々では誰も鑑みないといって嘆く者も居る。しかし、彼らは、総じて、自分らの様でありながら自分らではない、あわよくば自分らに敵対する者を、嫌いな様である。今となっては専門家の間では完全に反証されているというヒトラーにユダヤ人の血が入っていたという言説も、彼らにとっては、瑣末的に否定されて然るべきものの様である。事実がどうあれである。人によってはそれを「平和の毒」と呼ぶ者も居り、(目的の為に手段を択ばなかったナチスに対して)、手段の為に目的が選ばれないというのはかくも恐ろしいものである。
(2024/5/2 14:44)
ヨーロッパ、特にドイツで徴兵制復活の動き。結局、戦争が無くなっても、礼儀正しい人々を辱める黒死病患者の鼠共の世界でしかなかった。アメリカが(国として)栄えたのは、自体的に(な)民主主義国家であったからではない。それは、汎世界的な(に)「その様な」実験所(の一角)であったからである。残念ながら、経済学が歴史学に対して優越の地位を取る事は無い。一義化の産物が、それとして世に送り出され(歴史上)何を得るか?歴史の一コマ一コマとしての構成物なのか、(単に)地球を買い戻す為(だけ)のパラメータとしてあるのか。(仮にその「評価」を決めるのがアメリカであっても、それが故に)後者は、特には血で血を洗う戦場の最前線に過ぎない。「ノアの箱舟」の寓話にあらわれている様に、そんなものは只の(地表の)洗濯である。それで良いなら良いだろう、私は無い方が良いモノなど無い方が良いと考えている者である。「民主主義は数だ」と言っている人も居るらしく、少なくとも「そういう」彼らの学識においてはそれらはパラメータなのだろう。残念ながら、私にはそういう世界は理解出来ない。それらはやはり人を騙す一種の技術であり、だからこそ、私もそれらをそうやって場合により取り上げて使用している。「全て嘘だ」と云う人も居るが、私は結構平気で小手先の技術としてそういうものを使ってしまえる。勿論私の哲学的探究は、例えば「全て嘘だ」ならばそれはそれで、その辺りの事から始まった訳だが、自分で考えて答えを出したものは自分の(その意味での)血肉となるだろう。だから、そのプロセスが重要なのである。
(2024/5/2 9:53)
問いを解決するまで閉ざされた空間から出てこない数学者というのが居るそうである。彼は「平和は戦って勝ち取るものである」という事をテキストとして体現している。しかし彼は勝利の目的概を理解しない。それが理解されている場合、彼は自らの存在を技術化するだろう。その「技術化の瞬間の」アプローチによって全ては決定される。彼は、何故自らはそこでそれを行っているのかという事を考えた事があるだろうか。勿論その「問い」は死によって裏付けられている。しかし、彼はNichtseinとしての自己(の(非)存在)により不死者の業を背負っている。"To be or not to be, that is the problem."という文言を今更持ち出すまでも無い。そこで彼が自らの自由を知った時、彼は自らの責任をも知るだろう。死。それが彼に課された責任である。彼は死刑囚なのである。私はここで通り魔や自殺の推奨を行っているのではない。他者の死は自己の死とは関与しない。
(2024/4/23 20:13)
(2024/4/24 7:36)
日本人は日本人である事の社会学的な自己同一性を無視する。否、我々は無論それを無視出来ないが故に「それを無視する事しか出来ない」。(特に我々日本人における)ブランドイメージというのはそうやって作られていく。全てがpara-に為った挙句、人々はモノを大切にしなくなり、それでもってして大量生産大量消費へと繋げていくという拝金主義者御用達のやり口が一昔以前までこの日本ではまかり通っていた。ところで、日本人には日本人である事の生物学的な自己同一性を無視する者というのが居る。私Shinpei Sugiura(杉浦真平)の様な者である。精神科医にとっては、自己同一性と云う場合、社会学的も生物学的も何も無い様である。彼らは私の自己同一性について、その診断上、生物学的なそれを捨象する事によって、社会学的なそれを結果植え付ける事になる。「それ」が私の病気(の大元)なのである。何故ならば、(彼らも生きているヒトであり)、彼ら(によって捨象されたそ)の生物学的な自己同一性が、私の社会性となってはね返ってくるからである。
(2024/4/22 18:04)
アメリカを見よ。やはり人々はユダヤ排斥に動いた。弱さというのは伝染する。
…確かに我々日本人が歴史上使われているという自虐的見解は有る。その理由が「肉体の見た目が醜いから」ならばそれでもよい。そんな理由付けなどどうでもよいのである。同胞日本人の内愚俗な連中に対して「お前は下等で悪質なの!」と直接言えば分かるのか?どうしようもない。
例えば、「発達障害」という診断を下すのは精神科医であるから、精神科医が「発達障害」であると診断を下す限りにおいて当該の人物は発達障害である。只、精神科医が「発達障害」と診断を下すのには根拠が在るので、その根拠が社会的に妥当であると見なされる限りにおいて、その該当の人物に対する排斥が起こるだろう。つまり、それが発達障害であろうが発達障害と見分けがつかない(性格判断か何かに拠る)発達障害もどきであろうが、(社会的に(な))排斥が起こるという意味では同じことである。つまり、医師の治療を受け得るかそうでないかという事においてどのヒトも物事の本質的にこの点で同じである。私は、自閉症のスペクトラムの病気とは違ったところにある統合失調症(スキゾフレニア)という精神の(脳の)病気だが、被排斥者としての自覚はある程度あるので、医師の治療を受けている。社会生活を送る上で、あまりまともな人達に迷惑を掛けたくないというのもある故。
我々に与えられた肉体は、我々(の存在)への罰である。ニーチェは「十字架に掛けられたディオニュソス…」と云ったが、誰が誰を裁けるのか。人は自らで自らを裁くしかない。法は罪を犯した者の為にある。それを認めないのであれば、肉を削られても文句は言えまい。…骨。それはあくまで存在の表象に過ぎない。ホロコーストはユダヤ人に「このあり方で良いか?」と問うたのである。人類の次のあり方は?自らの存在を技術化する事である。私は知りたい、そこで彼らが求めている対象である客体を得られるのかどうかを。
理由付け(として)は何でもよい、ともかく、精神科医の中にはスキゾフレニアの患者における(まつわる)全ての事象に動機(となる事象)を与えて、スキゾフレニアの原因である「正体不明な何か」をあぶり出そうとする者らが居る。(その場合)、言語化され得る全てのものは患者から奪われていく。…そう、「(その場合)」、である。先の答えを言語化自体に求める者も居るが、言語化のパラダイムがそれとして存在する限りにおいて、それは間違っている。罪がある限り罰が無限に与えられるというその場合の蓋然性が自体的に究極の罪なのである。
(2024/4/21 19:00)
(2024/4/22 10:55)
実際の戦場において、サボタージュにかまけていては、敵兵に殺されるだけだろう。先の大戦中には旧日本軍において敵前逃亡は銃殺というのもあったが、戦場でサボタージュやそれに類する行為に及ぶ者はどんどん前線に送ってやれば良いであろう。ヒトの生態というのは、そういう風に出来ている。テキスト化された、実際の戦闘が行われる戦場では、その(ヒトの生態における)都合も上手く(は)まかり通らぬかもしれぬ。それはそれで、ナチスが導いた様な破滅が待っているものであり、それが実際の戦場の悲惨さである。戦場における殺人行為が肯定される為には、まずテキストとしての戦争が是認されねばならない。戦場というのは、先述の「そういう」者らにおいては(とっては)生きるのに都合が良いのである。そこで、「戦争犯罪」もそれとして是認される事になるが、法規概念上「戦争犯罪」は常に実効している。つまり、(テキスト化された)戦場が生きるのに都合が良い「そういう」者らにとって、戦争のテキストの(the texturizedの)具合が彼らの存在義と合致する場合、彼らは死を迎えるだろう(虐げる他者が居なければ、彼らは生きられないのである)。
(2024/4/20 13:40)
ヒトにおける攻撃性を否定する事に拠って、ヒトにおける当該行動を否定するという人々が居る。その見て見ぬフリが、彼らの存在義である。彼らにおいては、常に自らにおいて自らが是でなければならない。
他者への嫉妬心から、特定の行動に及ぶ人々が居る。彼らは「嫉妬豚」と呼ばれるに相応しいが、私はその存在に耐える事が出来ない。「嫉妬豚」に対して嫉妬心が沸き起こるとかそういう訳でも無い。私は、彼らの、「人は皆平等なはずなのにどうして自分だけが…」というその発想に耐えられないのである。私は、只今、「それ」をテキスト化したが、「それ」によって「それ」は無論止揚されている。
猜疑症(パラノイア)というのは皆そうである。
特定の人の社会性を否定するというのは、攻撃者が自らの社会性を被攻撃者に対して示す示さないというその事ではない。だとすれば、特定の人と特定の人の同意かというとそれでもない。(只)、人々のバラつきにおいて、この圏内は非異常(この圏外は異常)というのはある。その圏域の具体的領分を(形)作っているのが精神科医である。私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は統合失調症(スキゾフレニア)の患者だが、故に私は彼らを「サタニストとして」信頼している。
(2024/4/18 14:23)
(2024/4/18 20:30)
例えば、不良少年少女(集団)が非行に走るという形で警察機構に管理されている方が一般市民にとっては都合が良い様に、愚人は愚人で国家なり何なりの特定の社会形態を為していてくれている方が「一般市民」にとっては都合が良い。つまり、国家万歳という訳である。仮に、私Shinpei Sugiuraの様な者をファシストと呼ぶのならば、私の様でない者もファシストであろう。国家万歳。
つまるところ、奴隷が増えるか(神の)国が出来上がるかという事でしかない。ナチスドイツがスターリン支配下のロシアの下部機構であったなどと云えば聞こえの良いお笑い話だろうが、そういう事である。それを考えると、帝政ロシアは後発性渦巻くドイツを少なくとも文化人類学的に牛耳っていたという事だろうが、現在のウクライナに対してそもそもは(その意味での)「サレンダーコール」を為していたプーチン氏支配下のロシアは特にプロパガンダを打っていた訳ではない。
(2024/4/17 3:31)
「人間の狂気」だとか「心の闇」だとかいった文言でそれを取り沙汰す人々においては、我々は所詮サルの末裔であり、例えば殺人が具体的法規範上犯罪ではなくなったらどうなるかという事を推測してみれば良いという事が理解されていない。確かに、生物学的な自己同一性に基づいてサルとヒトとの区別が付けられるのは社会学的な自己同一性によるという事を考えれば、その類の推測がナンセンスでないとは云わない。しかし、「その様に」社会を壊す事も現行のヒトの知能ならば可能なのである。否、それは「具体的法規範」という形で既に為されている。「知らないものは無いのと同じ」という事は無い。当該人物の表象として何を用いるか?哲学者の中島義道氏の様に「快・不快」を(哲学的)テーマとして取り上げている人も居るが、どちらにしろ次に彼らはおそらく私の五感を潰そうとしてくるだろう。例えば、死刑囚の自死と非死刑囚の自死とでは違うだろう。前者について、別に処理には困らないだろうが、只、具体的法制度上の様々な問題がそこでは発生するだろう。それは目的概化された死である。しかし、彼らは、それであって、生きる事を目的概化している訳ではない。後者について、推奨されるものではない事は言うまでも無い。
(2024/4/16 17:51)
左翼国家社会主義党員の如く日本(人)が(歴史上)排斥されて出来上がったという見解について、それを(国体上)否定しながら(文化人類学上)認めているのが日本人である。日本人においては、その二筋縄が否定の背反となっている。…このテキスト自体が左翼国家社会主義的である事は言うまでも無い。文化人類学上の是認はあくまでも肯定的だが、そこに日本人としてのアイデンティティは無い。
(2024/4/15 14:52)
またホロコーストから学ばずに過ちを繰り返すのであれば、核が飛ぶだろう。次は完膚無きまでに死滅させる。星ごと壊して終わり。…道化師の性を本音と見紛う程に狂った社会のプロセスを踏むか否かで、連中が敵か味方かが分かる。(その意味で)致命的である。特に日本語のレトリックに拠る誤魔化しは通用しない。
(2024/4/15 13:14)