私の性欲は価値意識的である。それは、現在枯れているが、どちらにしろ、二義的な現象でしかない。私の性欲は、私のそれについての考えが変わって、失われた。今では、生殖能力は無い。つまり、私の性欲は物欲的だったのである。私の性欲を満たしてくれる女性は、おそらく、私に対して存在論的な性欲を抱く女性である。しかし、私はヒトのオスであり、その女性が実在するとするとヒトのメスである。出会う事は無い。
(2024/4/14 20:45)
夏目漱石の小説は大抵が駄作である。彼の、イギリスでの経験も、漢学の素養も、全てコンプレックスに塗れている。彼の云う、ゴージアン・ノットについての云々や日常生活の描写等に見られる(個人的)都合の否認否定についても、全て彼自身のコンプレックスを反映したものに過ぎない。…彼夏目金之助氏は、イギリスへ留学して「いじめられた」のである。彼が当時発症していたと言われている極度の神経症とやらについても、その様であろう。そこで彼は自問自答したのである。「何の為に英語など学んで来たのであろう」、と。そこで彼は漢学へと走った。それが、単純にも、彼の「漢学的素養」の正体である。…「ユダヤ人は(豚)肉を食わぬそうだね」と目的の登場人物にしゃべらせながら、ハムをほおばるその様を描いたのも、作者自らの社会的正当性(?)への欲求からである。当時のお上はそれを見抜いていた。漢学盛んな彼の下へ中国の若者を弟子にと送り込んだ。しかし、彼はそれを断った。…それらその気位が彼を吐血死へと追いやった。彼はおそらく殺されたのであろう。自らの出自を否認否定するのならば、お望み通り、という事である。
(2024/4/14 12:38)
人々は、一度奴隷に機会を与えて、連中が何を行うかの証拠作りを行おうとした。とある連中は、人を殺め食い物にした。また、とある連中は、人を犯し辱め道具にした。…どの奴隷にでも共通する事は、「それ」を行いながらゴキブリ並の繁殖力で増加した事だった。「それ」が繁茂の役に立っていると、「それ」を自体的に喜び(の元)とする連中も居た。勿論、「それ」が無ければ二者択一の世界で(喜びに)浸っていられたであろうというのは幻想である。「それ」が無ければ二者択一の世界もそもそも無い。
まずは差別を知る事。自分が差別する者も居れば、自分を差別する者も居る。次に構造的差別を知る事。現象としての差別の実態は有る。その意味で、差別の方がより構造的差別的であり、構造的差別の方がより差別的である。前者には"Io be or not to be, that is the problem."という事が伴うが、後者は読んで字の如く三行半であり、存在論的問題が伴う。システミックレイシズム(構造的差別)に加担する者は、"Io be or not to be, that is the problem."という事を否定しており、私はそれに属さない。
我々は死だけは許容されている。「(その)存在論的絶対領域を守る事だけが望みなのだろう」と(我々)人類は問われた。それにYesと答える者は"not to be"つまり生をもてあそび、それにNoと答える者は"to be"つまり死を選ぶ。
(2024/4/13 14:44)
(2024/4/13 22:58)
(2024/4/14 1:05)