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ミュージシャンの人たちだけに限らず、私は、声が格好良い人に惹かれます。

日本人だと、俳優の浅野忠信さんとか、欧米人だと、俳優のジョニー・デップさんとか、そうですよね。


私はどうも、女性よりも、美形の男性に惹かれる気があります。別に同性愛者ではないですけど。

これには、あまり年齢は関係ありません。ご老齢の方々だと、養老孟司さんとか、北野武さんとか、仏俳優のアラン・ドロンさんとか、そうですよね。


私はヒトのオスで、性欲の対象はヒトのメスですけど、まあヒトのメスに需要されなくて良かったな、と思ってます。そこらへんに悪い女なんかいっぱい居るんで。歌舞伎町の立ちんぼなんか絶対に買っちゃダメです(普通に警察に捕まります)。私は童貞ですが、童貞だといって馬鹿にされることなんか大したことありません。本当におぞましいんで、あんな奴ら。私は同性愛者ではないですがね。昔、知人が「大阪のヤクザ、ヤるのことカくっつーらしいぜ」って言ってましたけど、「カイテルカイテル、カイテル元帥」とかそういうノリで突っ込み出すと、本当にロクなことになりません。その中に入ったダニの死骸をエサにしている便所のゴミ箱みたいなヤクザ女がそこらへんにウヨウヨ居ます。ダメですよ、健全な男性諸氏はああいうのを相手にしちゃあ。

だいたいね、男が無根拠に女を需要していることが、何故、社会のありとあらゆるところで、前提になっているんですかね?ヒトのオスの性欲はエクスタシーを乗り越えると(射精すると)急速に冷めていきます。ヒトのメスはそうではありません。ヒトのメスは基本的にヒトのオスを釣るだけです。ヒトのオスからすると、ヒトのメスの全ての行動や言動がそれに直結しているということであり、ヒトのオスにとってヒトのメスというのはそういう存在であるということです(フランスにはこれを見抜いている女性が一部に居る様です)。だから私は、ヒトのメスだけでアマゾネスみたいな社会を作れば?それで上手くいくんじゃないの?と言っているんです。ヒトのオスはもうちょっと論理的に物事を考えます。簡単なところでは、例えば、何故差別が起こるのか、それを解決するには具体的に何をどうしたら良いか、等々。ああいう奴らは、普通に一般市民を殺してきます。戦争ですよ。こちらも敵を殺します。社会的に排斥して、物理的に殺すだけです。私は、「その意味で」、警察をゲシュタポ化すれば良いと考えています。どうです?

(西暦2023年9月1日19時30分記載、「知的障害のある女性が、恋人の親に会って起こったこと。誰も悪くないのに…“悲痛な叫び”が胸にズシッ|ドラマ『初恋、ざらり』」というニュース報道に際して)






「芸能界性被害の闇 ジャニーズだけじゃない…タニマチのX氏、イケメン俳優たちに囲まれ会食 隷属度に応じて支援先を決める」というニュース報道に際して(西暦2023年5月24日記載)


芸能人の人たちは居てくれないと巷がヤクザ化するので、芸能人や芸能界というものを否定する気は無い。それは、彼らにとっても、彼らでない人々にとっても、都合が良いはず。只、芸能界っていうのはそういう世界なんじゃないの?ってこと。枕営業が常態化し、乱交セックスパーティーみたいな、そういう印象を一般人としては受ける。だから、マスメディアが流す彼らに関する情報をきちんと自分で取捨選択して、適当に楽しんどきゃいい、ってこと。どういうことかって?謝罪の会見だろうが何だろうが、全てそれは彼らにとってプラスになるということ。彼らの最大の敵は彼らに対する無関心。だからこそ「芸能」だっての。




「王毅氏、台湾で日本批判 中国外交トップ、河野氏と会談」というニュース報道に際して(西暦2023年7月6日記載)


「髪を黄色く染めても、いくら鼻が尖っていても、西洋人にはなれない」というのは正論だと思いますよ。逆に云うと、髪の色にかかわらず、また鼻の形にかかわらず、黄色人種でも美形のヒトは居ます。さらには、非有色人種でも美形でないヒトも居るということです。ヒトの美意識も時と共に変化していくかもしれませんし。…只、確かにあの何処でもかしこでも化粧しまくる、そしてにもかかわらずその結果ブサイクなという、日本人のクリーチャー女を見ていると、そのテキスト化された行動面も含めて、王毅氏でなくとも、嫌にはなるであろうなとは思われます。大方の日本人女性はまともだと思いますけどね。

ところでさ、俺ら男って本当に女を見て((で)鑑みて)良いと思ってるんだろうか?何か、これは集団洗脳か何かじゃないかと思う時があるんだよね。何だこの肉塊、とふと思う場合がある。洗脳をかけてるのは紛れも無いヒトのメス。そこにあるのは、犯したい、殺したい、肉食いたい、破壊したい、っていう欲望ですらない何かに過ぎないんじゃないか、って考えることがある。建設したい(作りたい)なんて大嘘だぜ、と。「(で)鑑みて」っていうのは、心理学で男性の中にある女性性アニマだとかなんとかということが言われることがある。俺は動物行動学とか行動経済学だとか嫌いなんだけど、ヒトのメスの全ての行動が、(おそらく現行のヒト社会においては)最大の敵であるヒトのオスから身を守る為のもの、っていう。ミもフタも無いことを言えば、その気になればヒトのオスはヒトのメスを牧場で飼育したり工場で畜肉加工したり、いくらでも出来るだろう。(相手がどういったカテゴリーに属する者であっても)(その)相手が存在する限りにおいて、ということ。絶対に外部第三者からは読み取られない情報伝達技術があっても、第二者が存在する限りにおいて、ということ。……鴨が葱を背負ってやって来た的な、ヒトを利用する、人間関係の構築の仕方もあるというヒトも居る。彼らにとっては社会的禍根が巻き起こった方が都合が良い。エネルギーの源としてヒトを利用する、もしくはヒトを食い物にする、そういった彼らはいつかしっぺ返しを食らうかもしれない。烏合の衆が彼らにとって都合が良いわけでは決してない。彼らにとって都合が良いのは、特定の集団への帰属が既に為されているヒトビトである。特定の集団への破壊衝動を看過されてしまう様な相手に対しては、彼らは肩すかし感を食らう。独裁者が社会適応性が(極めて)高いかというと、決してそんなことは言えない。まあ、ともかくも、「エロ」の世界が「グロ」の世界へ移行しないことを祈るよ。

象徴化されたセックスというのは如何なるものであろうか。私には想像も付かないが、自由意志の完全に無いマシーンとしてのヒトが存在するとすると、そこには本能に根差した何が存在するのだろうか。全てが目的概化されたテキスト(として)の世界。差し迫ったindifferenceの具象化が為されるには、例えば、経済学におけるindifference curve(無差別曲線)は、数学的手法によっては事は為され得ないという事において、事を単純化し過ぎているということであり、それは物事における蓋然性を滅却した数学的思考の副産物である。過去、哲学者達が視覚というものをどう扱ってきたかという問題があるらしいが、例えば、三島由紀夫氏が「楯の会」という唯名でサークルを組んでいたのは、(「見せている」のと「見られる」のがもちろん違うということありき)、(「本物になると考えるだけになる哲学者のその思考」を)「蓋然性」という言葉では表現することが出来なかったからではないか。




「最も残酷な専制君主と独裁者の星座」というニュース報道に際して(西暦2023年8月23日記載)


恵まれた者らと恵まれない者らとの戦い。私は前者に属するが、これをイギリスとイスラエルとの戦いと表記するのには若干語弊があるだろう。「何を選択するかは貴方の自由だ」という場合、「それ」に掛かっているバイアスを無視することは確かに出来ない。しかし、そして、そのバイアス自体の概念が存在しないのが、前者においてかと思いきや後者においてである。ヒトのオスかヒトのメスかということに突き詰めるのは間違っている。自己同一性ということにおいて、生物学的なそれと社会学的なそれは区別されねばならない。「存在の機」という場合、それは生物学的な自己同一性である。「存在の価」という場合、それは社会学的な自己同一性である。どういうことかお分かりだろうか?ヒトのオスかヒトのメスかというのは、社会学的な自己同一性なのである。

ドイツで嗜好目的の大麻が使用を認められるとのこと。使用の程度に応じて、当該個人は駄目になっていくであろう。それは、具体的な「治療」方法が在ろうが無かろうが同じである。「麻薬」とはそういうものである。これは、社会の口減らしである。駄目なものは駄目。ヒトを誘惑するものが何をもたらすか?…しかし、例えば、アフリカ大陸にて毎日飲料水として泥水を啜らされている様な人々が状況として(の)問題を解決出来るか?中国の人々は、習近平氏を筆頭として、それを理解しているから、第一手目で(として)彼らを助けている。そして、それが、中国の行いが第三国によって「債務のわな」と呼ばれる由縁である。しかし、これに関しては、(もはや)、彼らの為になるとかならぬとかいった以前の問題である。ヒトの能力においては、出来ることと出来ぬことと有る。そして、もちろん、その上で、彼らは何かを為さねばならない。(逆)差別をはじめとする悪事に加担する事は、彼らにおける自虐である。非有色人種や有色人種の一部には、それを狙っている者も居る。それは、麻薬の様なものである。「それら」は、何故、彼らにとって優しくないのか?先にも書いた通り、それは自虐だからである。

「……子供はまだ何ら否認すべき過去を持たず、過去と未来の垣の中に、幸福きわまる盲目の中で遊びたわむれている……子供はその忘却状態から、呼びさまされる……そこで子供は"es war"という言葉を理解するようになる。"es war"というあの合言葉……人間存在が根本において何であるかを否が応でも想い出させようというのだ……」(ニーチェ)

ヨシフ・スターリンならば、「民衆などゴミだ」と云ったかもしれない。一体どういった類の人間達が、過去独裁者と呼ばれた人々によって殺され(ていっ)たのか、疑念が残るところで(は)ある。ところで、西側の一部に、現在ロシアを取り巻く環境は、被害も加害も含めて、ロシア国民全体に責任があるとする考え方がある様である。スターリン(の類の者)にとって、民衆は弱点であった。民衆の属性など、はっきり言って彼(ら)には関係が無かったろう。しかし、生存競争から脱落していった人間達に、少なからぬ傾向は在ったであろう。「それ」は、医師達に拠るスキゾフレニアの定義が目するそれと、「その傾向において」似ていたかもしれない。ヒトのメスを鑑みた場合、もちろん中にはそうではない女の人も居るだろうが、多くの個体において男尊女卑がまかり通ってしまうというのには訳がある。人を汚し、犯し、辱める、彼女らは、自分達が当該的に「そういう」被害者だからである。彼女らにとって性は悪であり、「どうして自分(ら)だけが」という意識から逃れられない。彼女らは、都合によって、自分の人格を滅却したり(その場合の相手である)他人の人格を滅却したりする。上記そうではない女の人というのは、彼女らが男性的という意味ではない。彼女らに女性としてのセックスがある限りにおいて、彼女らが男性的であるとは定義出来ない。それは、彼女らにおいて性が善であるということである。スターリンは、弱者に対する鑑みを、好色と嫌悪という相反する情によって「集団」へと昇華させた。彼は、そうやって、絶対に近寄らないという形で弱者から身を守っていた。これは、強者ということを彼が自らにまつわって客体視していたということである。これを世界との乖離とは呼ばせない。彼はヒトとして、そうやって外敵から身を守っていた。しかし、ということは、弱者に弱者であることを見せびらかされれば、彼はダメージを受けただろう。「強さの厭世主義というのはあるのか?」といった様なことをニーチェは言ったが、そんなものは無いだろう。「弱さの厭世主義」というのはあるかもしれない。というのは、自らの弱さを意識する(が故の)強者というのは存在し得るからである。妙な言い方だが、厭世下において、強さを意識するのは、その該当の個人が弱いからだろう。強者というのは、自らの弱点をすすんで潰しにかかり、自らを補強していくものだろう。敵に弱点を突かれることは即刻の死を意味するので、弱点を放置しておくということは、強さというものがどういうものか(本能的に)知っている強者においてはあり得ないだろう。隙を見せないというのはそういうことである。

(西暦2023年8月21日23時44分0秒記載、暦2023年8月23日13時38分35秒加筆改変、西暦2023年8月29日5時02分40秒加筆改変)




「国民の擬人化: あなたの国は誰?」というニュース報道に際して(西暦2023年9月27日記載)


やっぱり織田信長じゃないですかね。ちょっと変な言い方かもしれませんが、「高いステート」の人をリプレゼンテイティヴ(に)しておいた方が、ヒトによって特定の社会が作られる上では、色々と都合が良いのですよね。大は小を兼ねるじゃないですけど、高いコンテクスト「で」人々がそうであるということも考えられるでしょう。例えば、「白人である」とか、「白人が主流を占める地域に存している」とか、ね。その他、「知能が高い」「学歴が高い」「身長が高い」「顔面の造形が美形である」等々。「自分は自分だ」と云わんばかりに、こういったことを馬鹿にするヒトもいらっしゃいますけど、それはそれで愚か、というか現実を見ていないでしょう。確かに、当該のヒトがどの様な評定を与えられても、そのヒトが少なくとも短期的に変逸するわけではないですが、コンテクストを無視しては、ヒトは現実問題に対応して生きていくことは出来ないでしょう。ヤクザの人達の言葉で「シノギ」なんてものもあります。つまり、逆説的に、当該テクストを無視することによって該当テクストに囚われているっていうね。他者をいたずらに貶めようとするのもこの類のヒト達でしょう。そういう人達の奸計から逃れる為には、冒頭で述べた様にしておくのが賢いということです。

無視するのと、有視して反応しないのは、違いますからね。後者は、いわゆる「シカト」ですね。例えば、私は、関知したもの全てを無視しませんが、「シカト」することは多々あります。

西洋の絵画とかの場合だと、審美的に美しく描かれ得る女性の方が(で)男性よりモチーフとして優れているっていうね。ジャンヌダルクとかもそう。で、実際支配するのは男性っていう。それは西洋でも東洋でも同じだろう。例えば、「ベルセルク」の漫画の場合だと、騎士団の団長であるファルネーゼはあくまでお飾りで、野郎共が実質的に力を持ち軍隊の中枢に居て実効支配してる。副官のセルピコは確かにファルネーゼを助けるけど、助けるだけで、あとは団長の仕事を続けて下さい、実質野郎共にどうぞ、ということ。女性性の極みの様なファルネーゼにおいて、理想はセルピコと添い遂げること。しかしそれは叶わない。私はファルネーゼがセルピコを「紋章官!」と言って呼びつけるあの様が滑稽でならなかった。まあ、あの漫画はもっとヒトとヒトとのコミュニケーションやヒト社会における云々が深く描かれてるから、全体像としてはそう単純ではないかもしれないが。

(西暦2023年9月27日16時00分記載、西暦2023年9月28日2時00分加筆改変、西暦2023年9月28日7時30分加筆改変)
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