「成長スピードが圧倒的に速い人に共通する習慣」とは」というニュース報道に際して(西暦2023年5月14日記載)
マルサスという人口学者が、「人口は等比級数的に増加するが、食糧は等差級数的にしか得られない、(ので云々)」と言ってますが、"Der Mensch ist, was er ißt."というドイツの格言(諺?)ありき、しかし、ヒトはイコールでそのヒトが食べた物やそのヒトが得た情報ではないですよね。「組織全体に必要性を感じさせやすい環境や仕組み」が「習慣化」されて「違和感なく必要性を生み出している」というのは、ヒトが主体的に対象を学習する過程において自己にどういったバイアスが掛かっているかをある種本能的に学習させしめる何かを説明しているのではないでしょうか。
ヒトは三大欲求のうち、性欲だけは我慢できるそうであり、睡眠欲だけは我慢できないそうである。残りの、我慢できるかもしくは我慢できないかという尺度では裁けない、食欲というものについて、食物を摂れることはヒトの幸せであろうが、只、それは罪深い。……ということを言うと、存在の問題にまで昇華させることができてしまい、欲というものが一義として取り扱われることが可能となるので、もはやそれは例えば凶弾で有名人を沈める精神障害者の世界である。…自殺?それはそれで、その世界では、肯定されてしまうのだろう。タナトスが精神の分裂をもたらさないという詭弁は「人を食ってる」輩の(一種の)avariceである。
自らの衝動をコントロールするのが下手なのは、私の致命的な欠点である。それは、癖などと言えばまだ聞こえは良いが、物事における愚鈍なこだわりだったり、酷い場合は日常生活における何らかの支障だったりするだろう。脳内で自らを鈍化させるその「物語」は、おそらく唯名「統合失調」であらわされる。自己強化を含めて、それを何らかの形「に」昇華させることが出来れば良いが、悪魔の誘惑にはそう勝てるものではない。自分の中の悪魔と格闘するにおいて、虚無主義的な社会構造との闘争ということがある。社会は法廷ではなく、もし社会が法廷であるというのならば、(物理的な)法廷など必要あるまい。ナチスにおける虚無主義とは、アドルフ・ヒトラー一人のことではない。「だから」、ヒトラーは全てを破壊へと導いたのである。ヒトにおける憎悪を解放した挙句、ハーケンクロイツは戦場そのものであった。ハーケンクロイツの紋章は、ヒトにおける憎悪を(象徴もしくはそれを形而下へおろした形で)汎社会化したものであった。ナチス第三帝国において、社会の本質は戦場であった。BerlinがGermaniaと改称されて為されるアドルフ・ヒトラーの「千年帝国」の夢が具現化される限りでは良かったかもしれないが、現実はそうではなく、外部においては戦争、内部においては廃墟の製造という只それだけのものであった。外部性の内部化などと云えば聞こえは良いが、実際に行われていたのは、物理的にも非物理的にも国家国土を破壊するという只それだけのものであった。歴史的事実としてのナチスが行った事というのは、(逆説的に)内部性の外部化であり、そこでは、crash to createの繰り返しが現象している。ナチスのナチスである由縁が「それ」を招いたのである。もし、"Mein Kampf"(「わが闘争」)ではなく、「真に」外部性の内部化が執り行われていたらば、ヒトラー少年の夢も叶ったかもしれない。ヒトラーの行動原理は、人々を云わばないがしろにすることであった。人々が居るが故に、ナチスにおける虚無主義的なエネルギーによって、人々は疲弊し、廃墟の製造が招かれたのであった。…人々が居るが故に人々が疲弊する?それは、まさに、民主主義の本質(の様)ではないか?「二度とやるな」とは、ナチスが残した教訓であるが、歴史的事実の上に歴史的事実は積み重ねられ、もちろん、現代の「民主主義」社会も跡を引いている。歴史学者のE・H・カーは、「歴史は科学だ!」という様な内容のことを言っているが、ダイナミックな歴史のうねりの中で、「それ」は生き物の様に存在している。judgementの存在意義が「被される」場合、人が社会を形成する以上、そういうことではないか。