「「同じ人間なのに、どうしてウチは…」世間の“完璧な夫婦像”に劣等感。どう向き合えばいい?」というニュース報道に際して(西暦2023年5月7日記載)
それは、特定のAさんという人間と特定のAさんではない特定のBさんという人間が、別の人間だからでしょうね?「芸能人夫婦」や「ママタレント」や「インフルエンサー」という評定が(評定と見なされ)貴方を変逸させるんですか?違いますよね。若かろうが年老いていようが、普通の人はそのように感じないでしょう。だから、その様な事が「向き合う」という解決策の提示対象として認知されていることがそもそもの異常であるということです。この様な記事を提示している雑誌もそうですが、少し頭がお弱いのではないでしょうか。確かに、我々日本人は、その様な意識めいたものを義務教育の時点で刷り込むという事を行われますから、問題の解決策としては、まずその洗脳を解くことでしょう。ボットや人工知能も跋扈する世界で、社会的キャラクター単位で物事鑑みていても仕方が無いですから、物事について具体的に(具象的に)考えることです。そうすれば、自ずと問題は解決していくでしょう(死も選択肢の一つですよ、無理をしないことです)。
「同じ人間なのに、どうしてウチは…」と悩んでいる人に対して、「同じ人間」「大差ない」と頑張って説得しても全く効を奏さないでしょう。「人間皆の持つ思いは同じだと考える事」で悩んでいる当人はさらに追い詰められるでしょう。あ、むしろ、そうやって他者を新興宗教の信者みたく奴隷化するのが目的なのかな?自己中心的なのはどう鑑みてもそうやって人をたぶらかそうとしている人間でしょう。
私は、これらを見ていてあまり気持ちの良いものではないと感じる。グロテスクとまで言うと、露骨な差別に該当するし、社会的な制裁を受けても文句は言えないので、そういう表明を行う気は無いが、やはり生物(学)的な本能を無理して押さえることは出来ない。
人々の中には、こういうあわれな人々に対して、「発達障害」だとか「ADHD」だの「学習障害」だのというレッテルを貼る連中も居るようである。私はあまりそういったものを良しとはしない。只、そのレッテルが無かったらば彼らは人々から排斥されるだろう。
何故障害者が障害者なのか?該当の障害者の人が持つ該当社会における障害者の認定は、その人の権利であるということが出来る。例えば、それが如何に凄惨な事件であろうとも、犯罪の加害者を裁くのは司法であり、そのシステムに則って該当の人々が判断を下す。法は犯罪の加害者の為にある。もし加害者において法の裁きなど必要無いというのであれば、即時殺す云々というそういう世界である。それは私刑の世界であり、法治国家においては認められない。犯罪の被害者は本当に気の毒である。だからこそ、加害者に対して法の裁きを、というのが法治国家の理念だろう。「法は社会の反映である」。私はここで、障害者を犯罪の加害者や犯罪者だと言っているのでは勿論無い。
上述の「生物(学)的な本能を無理して押さえることは出来ない」というのは、障害者が障害者の権利を放棄しながら、且つ障害者の権利を主張する(かのような)、その矛盾に対してである。
「職場にいる「気が利く人」と「なにも気がつかない人」の決定的な差とは」というニュース報道に際して(西暦2023年6月7日記載)
近年、男性の女性化そして女性の男性化ということが云われていますが、「気が利く」云々というのは(主に、特には昔の)ヒトのメスの仕事でしょう。「最近の若い女は嫁に来ても気が利かん!」と言って怒るお爺さんなんかも居ます。仕事というのは、どういった能力を持ち、具体的に何を行いこなすかというところに問題があるでしょう。こういった記事を載せている連中も、自分達の女性的である由縁もしくは女々しさをきちんと理解しているのでしょう。