忍者ブログ

card

memo6

「36歳からの中年期をどう生きる?ユング心理学が教えてくれる「不安」との立ち向かい方」というニュース報道に際して(西暦2023年6月14日記載)






集合的無意識、曼荼羅。エニアグラム?あれは確かに示唆深いけど、あまり没頭し過ぎていると物理的な物々に(対して)発狂しそうになるんだよね。例えば、道を歩いていて「向こうから緑色のシャツを着たヒトがやって来る。こちらは二人組で歩いていて、左斜め前方にそのヒトが居て、私は二人組の向かって右側に配置して(されて)歩いているから現在タイプ4w5だ。」とかそういう事が頭から離れなくなっていた時期があった(私以外のヒトがそれの状況を意図して作っているかそうでないかは、この際、問題ではない)。正直言うと、今でも多々こういう事はある。精神科医は関係妄想の一種だと言うだろうが、認知してしまうものは仕方が無い。これが繰り返されていると、本当に洗脳されていく(様である)。…(ご存知の方はご存知だろうが)私の場合は、例えば、トランプやタロットカードで、数字に呪われているのか?、エニアグラムに関するものなど、頻度が高く「出た」りする。…エニアグラムの研究者である竜頭万里子さんはそういうことを言っているが、これは、おそらく、エニアグラムを知った事が直接の要因として成立しているのではない。私の意識の中にエニアグラム(図)が組み込まれたから。




意識云々と言ったが、基本的に頭の良いヒトというのは皆「そうやって」考える。頭の中だけで処理してしまう(弊害)という言い方も出来るかもしれないが、これは学校の勉強の出来具合のコストパフォーマンスと正の相関を示しているだろう。おそらく日本人にはそういう人間が多いが、やったことしか出来ない人間がどうかというと、特別に高学歴にはならないだろう。「コレはコレ、コレはコレ」と云っている人間は、只の無能だろう。大学の入学試験まではそれで通用することが仮に在っても、実社会に出てからはその様な人間は冷遇されるだろう。…だからその意味では、私の持っている「能力」は、ヒトが生きる上で、特段異常なものであると言うことは出来ない。ヒトは物事を学習しながら成長し生きていく(る)ものであり、成人して普通の大人として社会生活を送っているヒトに、赤ん坊の境地に戻ってその様ななりふりをしろといっても、(特殊な性癖を持ったヒトは別として)それは不可能だろう。只、「頭で考えるのではなく、体で考える」という様な事をおっしゃっている養老孟司さんの様なヒトが無能であるかというとそうではないだろう。あの人は、主に彼の情報をキャッチする子供達や若い世代のヒト達に向けて(そういう)情報を発信しているということに過ぎないものと思われる。その点では、エニアグラム研究家の竜頭万里子さんも同じであり、上記「特殊な性癖を持ったヒト」の様な者をエニアグラム図を用いた性格分類上の「子供タイプ」と位置付けているのかもしれない。私は、エニアグラムの専門の研究者ではないので断言は出来ないが、ヒトとしての知能自体と、性格が幼いか逆に老成しているかどうかという事については、あまり関係が無いだろう。…リソ氏のエニアグラムでは、タイプ5とタイプ9がスキゾフレニアックと規定されている。




ヒトの痛みの分かるが故にヒトを傷つけるという人達も居る。彼らは、タチが悪いというよりは、この場合のカール・グスタフ・ユングとは逆であり、それぞれのクライエントの個性に合った形でクライエントを攻撃していく。それは、表裏一体の関係であるということも出来るかもしれない。それが、彼らの個性なのである。彼らは、心理学の類に興味が無いのではなく、心理学の類には趣(おもむき)が無いと考えている。かつて、エニアグラム研究者の竜頭万里子さんは、(エニアグラムの)「悪用」として何かを危惧しておられたが、私は、これもその一つではないかと予想する。ところで、ヒトの痛みが分からないが故にヒトを傷つける(傷つけてしまう)という人達も居る様である。彼らは、露骨というか、竜頭万里子さんの言葉を借りるのならば、常に「丸出し」である。不遜にも馬鹿丸出しであるとも言えるが、常に丸出しであるが故に、差別者の意識と同じものである反差別意識を(常に)標榜する。彼らは、被差別者(の意識)について、考えていることを自認はするだろうが、考えていない。彼らは、それについて考えられないのである。彼らは、「脳や科学だけでは説明しきれない何か」に対する理解について邁進する意欲には溢れている。私見では、その「何か」はヒトに掴み切れるものではないが、それが故に、彼らはその分野において優れた業績を残すかもしれない。「ミステリアス」などと言われて喜ぶのは彼らの欠点であるかもしれないが、ひょっとしたら科学に関心を持つということは彼らの専売特許であるかもしれない。




「本位」と「非本位」とは何か。「存位」については言うまでも無いだろう。ここでは、先述の、(私以外のヒトが)それの状況を意図して作っているかそうでないか、ということが、(私において(は))問題となってくる。…「退け、サタンよ」と云う(「言う」ではない)のは容易い。それはそのヒトの強さだろう。その様呈をもってして「鈍い」などと云うヒトも居るかもしれないが、当該人物において無視するべきものを無視する能力が低いヒトが(無理に)その客体を無視しようとすると、そのヒトにはそれなりに負担が掛かるだろう。別に、だから私は、当該人物が当該人物において無視するべきものを有視することを無視するつもりは無い。視界に入る「と」うっとおしい、というのは、私の性格の幼さをよくあらわしている。ヒトの内最も残酷なのは老人ではなく生まれたての赤ん坊である。盲目が最強であるということは有り得ないだろうが、ハインリヒ・ヒムラーは強度の視野狭窄であったと私が読んだ何かの本に書いてあった。彼を道化扱いするヒトも居る様だが、ヒムラーのエニアグラムのタイプが何であるかは問題ではないということであり、竜頭万里子さんもヤクザの世界はタイプ2w1(の世界)とおっしゃっていた通り「我々SSと総統は一心同体!」な(世界の)ものであり、かの有名な強制収容所で被収容者のユダヤの人たちが視察に来たヒムラーに向かって「長官!我々はこんなに頑張っております!」と訴える場面の写真が撮られているということには事の一抹が浮き彫りにされている。精神の分裂が集合的無意識によって治療され(得)るというのは、ナンセンスな頓知気だろうか。引き裂かれた自己は胎動を催す。




「強さの厭世主義というのはあるのか?」といった様なことをニーチェは言ったが、そんなものは無いだろう。「弱さの厭世主義」というのはあるかもしれない。というのは、自らの弱さを意識する(が故の)強者というのは存在し得るからである。妙な言い方だが、厭世下において、強さを意識するのは、その該当の個人が弱いからだろう。強者というのは、自らの弱点をすすんで潰しにかかり、自らを補強していくものだろう。敵に弱点を突かれることは即刻の死を意味するので、弱点を放置しておくということは、強さというものがどういうものか(本能的に)知っている強者においてはあり得ないだろう。隙を見せないというのはそういうことである。ちなみに、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は、自らをして強者とは言い難い。(世界が)自らと乖離するというのはこういうことではないか?ヒトの肉体はあまりに圧を掛けられると暴発する。それは脳とその機能に関しても同じであろう。古来、ヒトは様々な拷問を考え実践してきた。火責め、水責め、エトセトラ。精神科医療は一種の現代における拷問の側面もあるだろう。「俺!俺!オレどうっすか!?」という(一種の)オレオレ詐欺は、「ヒト責め」などというものに該当すると言うことが出来るかもしれない。キャバレーの類の要所は、人間関係として、楽しいものである。彼女らが男性的という意味ではない。彼女らに女性としてのセックスがある限りにおいて、彼女らが男性的であるとは定義出来ない。それは、彼女らにおいて性が善であるということである。性悪説の女性は、当該的に「そういう」被害者である。彼女らにとって性は悪であり、「どうして自分(ら)だけが」という意識から逃れられない。彼女らは、都合によって、自分の人格を滅却したり(その場合の相手である)他人の人格を滅却したりする。




エニアグラムのタイプ判定において、累進加点制を採用している人達が居る様だが、あれはナンセンスである。measureに長さはあっても数値化するのはナンセンスである。エニアグラムのタイプ判定は「もっと」動態的(であるべき)である。只、エニアグラム図が用いられている限りにおいて、それは一義的である。…ユングは曼荼羅模様に何を見たのか?

(Moving quickly is the thing of investment. Are I OK? ...I am good at composing, but it takes a time. Composition? It is OK to continue to do it. What is dangerous thing? It depends on mercenaries. Time has come. Some demons conquered me, but they were contributors to many of people. That's good thing. I am associated with them.

This perspective is observation of speculation on which with artificial intelligence pieces of evidence of something do not go. There is no perfect speculation, therefore singularized it may exist.

People of good things do intend to collapse themselves, and this way of thinking is degreed. "On purpose" this should not be performed.)




Bingで”English”と検索した後に"German"と検索したら日本語で「繋がっていません(云々)」という表示が出た。クラッカーによる攻撃だろう。これが「ケインズ」と「ハイエク」でも同じことである。私が書いてネット上にupしてある英語の文章には、形容詞の前に不定冠詞や定冠詞が付いている珍妙なものが多々あるが、あれは日付の当時Grammarlyでそれが正解であるとして出て来たものである。勿論これもクラッカーによる攻撃だろう。私は、当時、それを自分が精神病院に入院していた間に文法が変わったものであると思い込んでいた。本当にそう思い込んでいたのである。これが、医薬品とも云えど、薬物による恐ろしさであろうか。

(Sometimes doctors seize decisions by the government. Their consent is medical compliance. In other words, there is no equilibrium between action by doctors and one by government officials once and for all. The market mechanism is a tool for analyzing activated people. Depending on each motif of the market mechanism, we admit no sovereign officials'. In their opinion, obscurity and maturity contribute to rising force of law enforcement in society. Unless the obstinate situation pasted by their community is under commitment by Hitler and Nazis, there was a judicial activity in a court of law. Such a pandemic easily surmounts the rule of law.

Which ambition? Being competitive is the superiority of human beings, but sometimes something ambitious becomes a person of inferiority. When pandemic conquers people's focusing on social interests, American people look like inventors of laissez-faire against their blood. Disaster waits for us for the next time, as I wish I were infectious dream.

History is different from historical identification. Perhaps this is not true. There should be an argument which is "What is historical representative?" Let it be. No matter what I am sorry for depending on a case of the United States, not only it is not compared to what to be but also dictates the degree, which is going to be.)




我々においては、罪と罰の具象化が為されている。もし、我々が、その具現体であれば、救われ様が無い。どの言語でも、それを母国語とするヒトが存する限りにおいて、意図的な勉強を行わないと習得出来ないということは無いだろう。ところで、竜頭万里子さん曰くの「エニアグラム語」とは如何なるものか。それは、一種のユング曰くの集合的無意識には違い無いが、エニアグラム図が使われている限りにおいて、それは(もっと)物理的である。それは、(多少歪めれば)何処からでも取り出せる。それは、日本語の文字通り「抽象的」かもしれない。しかし、(タイプ4は言葉の世界に生きているそうだが)竜頭万里子さんがおっしゃっているのはもっと別のことだろう。…私の言葉が私になる?それは、単に、物事の二面性を当て付けられているということではない。単純な左右の二元論はそこには無い。…ナチスが極右などと誰が言った?タイプ8→「食う」、タイプ7→「殺す」、タイプ3→「犯す」、タイプ4→「?」。これらは全て「タイプ○的なもの」とでも形容され得るものであり、竜頭万里子さんが判定したエニアグラムの性格タイプとは(直接的な)関係は無い。タイプ8、タイプ7、タイプ3は、戦場上であるとすると理解しやすいそうだが、実際、竜頭万里子さんにタイプ8やタイプ7やタイプ3と判定されたヒト達、タイプ4と判定されたヒト達ですらもが、上記の様であるかというとそうではない。百獣の王同士では「激しい殺し合い」だそうである。タイプ8には「『自分はタイプ4だ!』と主張する」というヒトもおられるそうである。タイプ4的なものの「?」を自虐と表現してしまって適切かどうかは(この場では)分からないが、かつて竜頭万里子さんがおっしゃっていた「タイプ5にとってタイプ4などものの役に立たず……」ということにはそういうものもあるものであるかと思われる。…「どちらが」上手く社会を構成できるかという問題にもなってくるが、「脱皮できない蛇」だけでは明確に社会を構成できない。…タイプ8→「erase」、タイプ7→「absorb in」、タイプ3→「invade」、と云ってもある種良いかもしれない。

(Have you ever had green tea? A cup of that is so delicious and good for our health. Viridian leaves give inspiration to self-portraits to us. ......I am not going to attack or scorn the people of your country, but I think that you have to think of yourself again. When it comes to "You are not alone.", some people like you and some people dislike you. There are enemies. From geographical point of view there is distance between you and me(us), but why can each of us become good neighbourhood? Please do not ignore a kind of "human addiction." You said the same of "Everybody's someone else's bad person." as well. This is not an irony. We know each other.)




「ペンは剣よりも強し」という諺にまつわって、意味内容で消されるというのは、特定の人々が恐れることの様である。マルサスという経済学者が、「人口は等比級数的に増加するが、食糧は等差級数的にしか得られない、(ので云々)」と言っているが、"Der Mensch ist, was er ißt."というドイツの格言(諺?)ありき、しかし、ヒトはイコールでそのヒトが摂取した食物やそのヒトが得た情報ではない。「私は何で出来上がっているのか?」という場合、それは(おそらく)目的概化している。(少なくとも)ヒトには遺伝情報ありき、生物(の構造)はそう単純ではない。世界がpara-したら、精神疾患ひいては規定体の一部となるということだろう。社会がpara-したら、それはファシズムが台頭した世界というよりは、ナチス支配下のドイツのような社会が構成されているということだろう。個人がpara-したら、それは読んで字の如く「それ自身から全てが発している社会ひいては世界が構成されている」、生物学的な自己同一性と社会学的な自己同一性の区別が付かないか自己同一性というものにおいて社会学的なそれしか存在しないというところの精神障害者、ということだろう。狂信者の凶弾に倒れたジョン・レノンが何かを物語っている。セックスには背徳が付き纏うが、通常はそれを消すことは出来ない。それを自覚しながら平気で子孫を残す彼らにおいてはそれが可能なのだろう。例えば、「私は遺伝子に異常がある、よって私はstupidではない」というのは間違っているのであって、「私は遺伝子に異常がある、よって私はstupidである(遺伝子に異常が無いからといってstupidではないというわけではない)」というのが正しいものであるということである。

(Can the man allying himself to a sword beat one allying himself to a pen? Even if there was the reason why the messenger was hacked, it reminded me of how to happen. Dull explanation for what to live, "Can the man earning his bread beat one allying himself to a pen?", gives him the reason why the messenger is hacked.)




特定の行動を取るにあたって、自分がそれを行うか行わないか、という問題。他者は関係無い、「他人に甘えるな」というのはそういうこと。子供にそれをどう学習させるかという問題がある。もちろん、これは、法令違反云々の話だけではない。日本の(教育の)場合は、同調圧力というものがここで持ち上がる。例えば、屋外を歩いていて、こちらに何らメリットの無い形で意図的に絡んでくる連中も居るので、最後は物理的な問題に帰着するだろう。まさか、他者に故意に体当たりする訳にはいくまい。酷い場合、それによって特定の肉体の使い方に追いやられる程にヒトを辱めてくる連中も居る(ヒトは得られる情報の70%を視覚情報によって得ているそうである)。分かり易く場形象で説明してみようか。ターゲットの肉体を左へ釣るような情報をひたすら与え、ターゲットの肉体を左斜頸させる。次に、(特定の)対象の存位をそれ(左斜頸)から立ち返った状態のその瞬間に(のものとして)刷り込む。そうすると、ターゲットはその客観視能力によって、それから逃れようとひたすらそれを「情報として」自身に取り込む様になる(これはおそらく知能が高い個体程この傾向が強い)。この際、まるで「情報」が「左」で「対象(自体)」が「右」であるかのような、単純な二元論を旨とする左右の何某が世界の真実であるかのような錯覚に捕らわれるが、それはどうでもいい。問題は、それにまつわって、筋肉の硬直や酷い場合は骨格の歪みという形でそれが身体症状としてあらわれることである。これは、場合により、精神科医にデプレッションやスキゾフレニアなどと診断結果を下されることの要因となるだろう(精神科医はもちろん答えを知っている、原因不明とは笑わせる)。




精神科医はカルテを作っている。彼らはそのカルテによって、私にとって利となること、そして自分達にとって利となること、を、行っている。(ということは)、もちろん、診察室の外での彼らは私の敵である。別に、私が、職業人としての彼らしか知らないのであれば、何も問題は無い。「しかし、そうではないな」、と、私が判断する限りにおいて、彼らはそこを突いてくる。「呑まれろ」と彼らは言っている。私の判断は、もちろん、具体的事項による。彼ら精神科医は、まず、そこを(から)突き崩そうとする。それが良く発現すれば良い。それは、一種の倒錯による治療であろう。しかし、生物としての本能によるものまで是認されてしまっては、ヒトが織り成す社会に組み入れられることは難しいだろう、彼らも私も。…ちょっと現実的な話。精神科医の患者である私に関する扱いというのは、基本的に、まず、均質化である。私が精神科医に対して否定的見解を抱いている限りにおいて、彼らも私に対して否定的見解を抱く(というポーズをとる)。つまり、彼らは、患者である私を診察しない。しかし、彼らは、私が、彼らをコミュニケーションの対象としている限りにおいて、私とコミュニケーションを取る。つまり、彼らは、いくらでも私に対して診察室内で嘘を吐くし、場合により私を侮辱したり、私に対して危害を特定の医薬品の投薬や特定の暴力的手段を用いていくらでも加えてきたりする。彼らは、もちろん、法治圏外ではない。私の過去の経験から言うと、彼らは殺人罪では捕まっても傷害罪では捕まらないらしいが、ひたすら私刑という形で患者である私を裁こうとする。ここで、罪の重さという概念が出てくる。しかし、残念ながら、それが為されるのは法廷においてのみである。社会が法廷であるというのならば、具体的な物理的法廷など必要無い。それが為されるのは、ナチス支配下におけるドイツの(様な)社会においてのみである。法律Aと法律Aではない法律Bが存在するとして、とある特定の個人が法律Aに違反したからといって無条件に法律Bにも違反しているという事にはならない。法廷が存在するという法Xが違反されている場合において、法廷が存在しないという法Yが違反されている事になるが、それは無条件降伏の世界である。…何らかの手法によって、実際の認識と肉体が自らに対して表出するサインの間にズレを与えて、対象の肉体を犯していくという攻撃の仕方が生物(を操る)学的に可能であるかもしれない。これは、もし出来るとしたらば、生物学的にだけでなく社会学的にも可能であろう。後者の場合でも対象の身に危険が及ぶことは間違いが無い。犯罪の被害者や加害者に仕立て上げられたり、場合により「原因不明のスキゾフレニア」だったりするだろう(…というのは、もはやスキゾフレニアの内逸(jurisprudence)にどんどん変遷が加えられているということである)。その様にして現出される、例えば新しげな「妄想」について、これを食い物にする輩というのが居る。例えば、当の精神科医である。精神科医が何を研究しているのか私は厳密には知らぬ。只、一種の社会適応と平行してのアラワレを精神科医が取り沙汰してネタにしているのは間違いが無いであろう。「(抗精神病)薬によるコントロールは出来ている」という患者へのたしなめも精神科医のやり口の一つである。薬効は在るだろうが、この件に関しては、それだけである。「良薬口に苦し」という諺の通り云われるべきものであっても、その薬効部位が脳である場合、それは必ずしも当てはまらない。「苦い」か「苦くない」かが判断の基準として為らないからである。




日々、様々な考えや思いが浮かんでくるが、それについての能動自体の反動で散発的にオーバードリヴンされたそれに支配されるようでもある。その場合、自分の自覚意識的な思考というものとは別なので、それは非常に苦しく不快なものとなる。出てくる答えは、もちろん、滅茶苦茶である。まるで、それ自体が、自分にまつわる「正覚(せいかく)な」答えであるかの様に、思い込まなければいけない義務錯覚的なものというのも存在する。(これは、精神医学で言うところの、「念慮」の一であろう)。これは、つまびらやかな勃興という形で私の中に存するが、その下地とでも云うべきものは恒常的である。これは、抗精神病薬をしばらく断薬していたとか、再び服薬し始めたとか、そういったことに関する事ではない。…他者からの攻撃を受け、社会には明らかに悪質な人間も存在するという事を知った現在では(私が遭った目は相当酷いものである)、善良な人々や人と人とが助け合うことの大切さが身に染みてよく分かるものである。私は、もはや、医療従事者の人々には、自分の身体を診てもらえぬものと覚悟を決めていた。確かに精神医療の現場は酷く、問題が多々存在するものである。しかし、一義的に物事が断決されて良いものではない。看護師の人たちの、献身的な態度や物事への対し方を見ていると(少々言い方に問題があるかもしれないが、上下両方に対する、ということである)、それは容易に理解出来るものである。医師と患者の間を取り結ぶのは簡単ではない。精神科医と、精神病患者として相対し、時には戦ってきた私にはそれはよく分かる。彼らは、どうしても患者において、「辛さの厭世主義」を誘発してくる。これが、「「強さの厭世主義」という勘違い」へと化けることが非常に危険なのだが、それを、医学的そして生物学的に「本当のこと」を提示することによって、患者をその様な態から救ってくれるのが看護師の人々である。確かに、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)の親族に(幸いにもその人物とは血はつながっていない)私に対して攻撃を行ってくるおぞましい女も居る。その人物から、医療従事者の人々がどれだけ私の身を守ってくれたか分からない。「甘いもの」を摂取することで、どれだけ存在が汚されるかということである。私の敵方(例えば上記の親族の女)は、その様に私を攻撃してくる。それは、看護師や医師の人々の親切さとは類を異にする。これは、「サタンにおける憎悪の帳」と「本物になると考えるだけになる哲学者のその思考」との違いの様なものである。




これら文章も、crash to createの繰り返しとは云わぬが、私の破壊衝動の様なものを原理として書かれているのかもしれぬ。私は精神科医ではないし、精神医学に関する専門的な知識も殆ど無いが、その辺りのことは、漠然とした感慨ではなく、理屈上理解出来るものである。死(へ)の欲動は精神の分裂をもたらす。「その」状態の方が、私にとっては、残念ながら、楽な様である。只、これは錯覚かもしれぬ。精神科医はきっとこう言うだろう、「大丈夫、あなたは必ず良くなる」。もちろん私はとうに成長期は過ぎているが、時を経るという意味で、ヒトが生育するという過程において、教育と被教育は違うということが出来る。被教育による自由の伸びしろは教育によって埋め合わされていくべきだろう。教育とは未来の産物かもしれぬ。…ところで、私は齢四十過ぎの中年男である。その現在になって、自由とは何かということを説明する理はあっても、気概は持たぬ。ふしだらなものを排除し、自己を統制すべくのある種の社会参画意欲は、当然もはや習慣として身に付いている。人生幾つになっても勉強というのは(その様に)然るべきものである。…"death education"という場合、教育が未来の産物であるとは限らぬ。それを牛耳るのは(物理的な)強制収容所の管理者ではない。それは、既に私とともにある。物理的な事物の表象がそれの代替物であるわけではない。認識論めいたことを言っても(この)問題の解決にはならぬかもしれぬ。「問題の解決にはならぬ」というのは、教育が未来の産物ではないということである。そこには、自らの亜種が(恐ろしくも場合により自覚的に)立ち上がるであろう。…自らを擬態するとは何か。例えば、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は、自分の日常生活における食生活の改善の余地の具体的内容など、他に書くべきことは幾らでもあることを理解している。にもかかわらず、こういうことを書く。…私は自分で自分を擬態している。それを虚飾であるという人も居るが、擬態、それも自分で自分を擬態するということと、虚飾とは違う。確かに、私は、自己顕示欲は殆ど無いが、虚栄心は強い。この文章の羅列(させること)自体も、一種のvanity fairであるということだろう。私は、太宰治氏の小説はあまり好きではないし、フランス文学に造旨が深いわけでもない。ここで、「フランス文学といったって色々ある」という一般的アカデミズムの見解は採用されない。他人を擬態し出したらば人は終わりであり、それは正に左翼全共闘の世界である。「他人の中に自分を見るな」ということである。




肉や魚や卵を食べるにあたって、罪深さを感じないわけではない。美味しく調理されたそれらを頂戴するとなると、事は特別である。只、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)個人の信条が間違っているとは考えない。生まれついた肉体の歪みに因る苦しみを患っている私には、畜肉にされる家畜の苦しみがよく分かるつもりである。大体、「家畜」という(日本語における)言い方がどうかと思われる。英語では、"live stock"である。ものの命を、自らが生きる為に頂くという、その原理的倫理性があらわれているのは明らかに後者である。このことには、もちろん、キリスト教徒的な価値意識が根付いている。彼らは、(生物として動物性の栄養を必要とするにあたって)どう自分以外の生き物に対するかということをよくよく考えている。由来としては、多極的に偶発的かもしれないが、「いただきます」「ごちそうさま」といった挨拶の礼儀作法や、「天にまします我らの神よ…(食事を与えていただきありがとうございます)」という感謝の礼示(というおそらく一つのものの考え方)は、そういったことに基づくものだろう。「食うか食われるか」などといったものは、狩猟民族的な戦場の生き物のそれである。彼らは、食前食後の挨拶など度外視である。彼らには、人々が(ヒトが)神概念を抱く以前の生き物としての名残りがある。彼らは、動物的に見えるかもしれないが、決して狼(など)ではない。神概念そのものが(儀)礼的であるということも出来るだろう。それは、(ある種のヒエラルキー的な?)社会構造そのものを「社会的に」(人々の(ヒトの)間に)喚起させる。ニーチェは、「強さの厭世主義というのはあるのか?」といった様なことを言ったが、それに至る経緯はどうあれ、彼は(おそらく)戦場の生き物である。もちろん、厭世は厭世であり、世にはばかり知れぬということである。彼らは、人を「食って」いる。タナトスが精神の分裂をもたらさないという詭弁は人を「食ってる」輩の一種のavariceである。義化された欲望の産物によって、(彼らは)「神によって盲目をもってして(その様な)罰を喰らっている」。シラーは、その文学作品「群盗」で、それを「豚の群れ」と表現したが、神の無い人間のあわれさには過去多くの知識人が言及している。確かに、現代の新興宗教にしばしば見られる様に、邪教というのはあるが、少なくともこの二千年、ヒトを現態の様に進化させたということにおいて、宗教というものの役割は大きい。ジャン・カルヴァンがそれを為そうとした様な(に)、生活までが教義化されるということにおいて、現代社会ではその役割は薄らいでいるかもしれないが、「根差す生き物」としてのヒトは、その意味で(は)「土から離れては生きられない」。様々な代替物が現れ、品を変えながら人々はそれ(ら)に頼り生きて来たが、ともかくも、「神は最初に天と地をつくった」。別に、天と地はversusな関係でもなければ、天と地は互いのパートナーでもない。神というものが人にとってどういうものであるか考えればおのずと答えは出てくるはずである。…特に女性にはよく分かるはずである。人への感謝というものが、どういったところから湧き出で、とういったものであるか。私には、愛というものを例えば具体的に語れといわれても難しい。しかし、愛し合う人々がどういった様であるか見ていればそのあたりのことは大体分かるものである。もしかしたら、彼らの中には、見ているだけの私を嫌う人も居るかもしれない。しかし、物事の具象性を超えたところにそれは存し、私もまた社会の一員である。弱さは罪であるということが出来るだろう。それは厭世を招くからである。生物学的な抵抗体力の強さ(弱さ)もそれに含まれるだろう。「神の国へ…」といった場合、ヒトはどういった生物に進化しているだろうか?既存の我々の常識が全く通用しない知的生命体の存在(の可能性)ということについても考えておいた方が良いだろう。例えば、1+1が13になるところに存している知的生命体の存在等。…「ヒトが生きている」ということの変逸が、ものを考える場合の何かを(として)あらわす(あらわれる)ことになるだろう。「その様には」、私は、考えていないからである。人間中心主義が、知的生命体としてのヒトの知能に帰順するとは、私は言わない。それは、現態からの出発に過ぎない。知というものを逸した知というもののその変逸(それもまた前と同義ではあるのだが)がコスモスと出るかカオスと出るか、戦場の生き物には(では)分からないだろう。…普通は(我々の一般常識的に考えて)分からない。(しかし)、「戦うことは悪ですか」と問われた場合、少なくともヒトとヒトとのコミュニケーション上の問題として、それを挑発と捉えるのは愚かである。つまり、そこへ来て、愚かさの概念は残っている。サタンは自らの内にあるものであり、「汝自身を知れ!」






「“悪夢”を繰り返す…「怖い夢」見る原因は? 病院行くべき? 心理カウンセラーが解説」というニュース報道に際して(西暦2023年10月5日記載)


原因は具体的な個々の記憶そのものだと思われます。私は、こういったことに関しては文学的表現をしか採用出来ないので申し訳無くそういった表現を取らせてもらいますが、まず、「忘れたと思い込んでいる記憶」と「(本当に)忘れてしまった記憶」は違いますよね。後者が為されれば、おそらく悪夢を見ることはありません。しかし、それには、現行ではおそらく医薬品を使用するしかないです。私は抗精神病薬という種類の医薬品を使用しています。これは精神科医が場合により処方してくれます。そして、前者について、その忘却ではなく滅却された記憶が、起床中であろうが睡眠中であろうが、程度の差こそあれ、甦ることがあります。起床中は、ヒトの行動は(ヒトは行動として)目的概化されていることが殆どなので、あまり意識することは無いかもしれませんが、それについて潜在的にストレスは溜まっており、それが医学的には悪夢やトラウマという形であらわれる事があるでしょう。つまり、妙な言い方ですが、きちんと(?)覚醒して当該記憶を忘れたと思い込んでいる以前に自分を戻してなお且つその記憶を何らかの形で処理してしまえば、問題は解決されると考えられます。その具体的な方法ですが、私はそれを文章にして書き出してしまうという方法をお勧めしています。私の様に医師の処方する医薬品を使用しても良いですが、それだけに頼るという方法では限界があります。ちなみに、一般的な精神科医は、後者ではなく前者を患者において誘発させてそれを表象的に見て治癒と呼んでいることが多いので、きちんと自分で解決しないと駄目です(藪医者は儲かるという話)。

(西暦2023年10月5日0時20分記載)






「「男性が狩猟、女性は採集」という定説、なんと誤りだったらしい【研究結果】」というニュース報道に際して(西暦2023年7月14日記載)


カール・ポパーという人物が、科学の科学性は反証可能性にあるという様な事を言っていますが、それは明確(に科学的である様)な根拠在ってのこと。この記事に載せられていることからだけでは、殆ど判断がつきません。狩猟や採集の形態、使用される道具、狩猟や採集の対象となるもの、どれもあまり明確でない。只、「そこ」で得られた結論から、生物学的な人類の進化と合わせて(それで)鑑みて、現代のヒト社会におけるジェンダー問題等において何らかの結論を出すヒト達は居ると思いますよ。彼らの発想は、短絡的とか短絡的でないとかではなくて、発想に過ぎないでしょう。私は、「殺して拉致する」のを狩猟民族型、「拉致して殺す」のを農耕民族型、の行動であると考えていますが、これも同じです。狩猟や採集や農耕ということを説明するにあたって、便利かもしれませんが、これは所詮ツールに過ぎないでしょう。その意味では、皮肉にも、それこそ狩猟の為のツールを作っているプリミティヴな行動に過ぎないかもしれません。つまり、科学的合理性とは、狩猟でも農耕でもなく採集の対象において存するということであるでしょう。
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
Shinpei Sugiura
性別:
男性

カテゴリー

最新記事

(04/20)
(04/13)
(04/10)
(04/08)
(04/03)

P R