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「「死んだあとのことは知ったことではない」養老孟司さんが"終活"は無意味ではた迷惑な行為だと断言するワケ」というニュース報道に際して(西暦2023年4月30日記載)






「終活」は、死に対して、「不健全」なのではなくて、「不自然」だとということでしょう。つまり、「終活」というのは、「残されたヒトに迷惑が掛からない様に準備をしておくこと」なのだから、選択肢の一つだということでしょう。養老孟司先生がおっしゃる様に、それを、自分の死後生きている人たちに対する一種の教育だと見なし、選択しないか、もしくは、多くの人々の様に、それを、(自分もその様に迷惑を掛けられるのが嫌だから?、そういうことならばこれも一種の教育でしょう)選択するか、というところの問題でしょう。

生まれるということについては、私は、子供は母親の胎内で胎動して、きちんと生まれる準備をしているものだと考えています。これは人工妊娠中絶に反対するか賛成するかという問題とも関連してきますが、子供は母親の子宮の中で間違いなく生きているという見解が妥当ではないでしょうか。だから、私は人工妊娠中絶には反対です。養老孟司先生が、「人工妊娠中絶に賛成している!」という論理の飛躍した意見を私はここで主張するつもりはありませんが、お言葉ですがこういうこともちゃんと考えて頂きたいと思っている次第です。

経済学者の今村仁司氏は、「墓を持つのはヒトだけであり、ヒト以外の動物は墓を持たない。これには例外が無い。」と、おっしゃっています。つまり、勝手につくられた墓は墓とは見なされないということであり、墓地は集団への帰属の表象であり、そこには(ヒトの集団の)二義性(ということ)が存在する。墓地ありきでの集団への帰属が埋葬によって為されるということでしょう。セックスには死のイメージが付きまといますが、つまり、(人としての)相手ありきでの性交ということが、ここで、取り沙汰され、セックスの行い方という概念がここで出て来ます。貴方は死後も大切にされるべき存在なのだ、と。




性交云々については、私個人の独自の考えの色合いが強いのですが、やはり、ヒトの死ということに関しては、埋葬という行為が墓地を墓地たらしめるのではないでしょうか。埋葬という行為無しでは、墓地が墓地としてそもそも成立せず、墓地無しでは死後の世界という概念がそもそも存立しない。その墓地が集団墓地であろうがそうでない墓地であろうがそれは同じことかと思われます。墓地の無い「死後」を考えてみればいいんです。死体を野晒しにしてずっと観察するとか、そういう世界です。ああ、なんか変な臭いを発しはじめた、どんどん腐っていくな、骨だけになっちゃった、消えて無くなっちゃった。そこには、あまり想像力の働く余地は無いのではないかと私は考えます。




墓が死の観念の具象化であるとすると、それは葬送儀礼(埋葬)だけでなく墓参りや墓標への献花という事によっても為されるでしょう。つまり、婚姻が制度であるのと同じく、葬送儀礼(埋葬)や墓参りや墓地への献花も(特定の社会的合意に基づいた)制度であるということになります。場合により、墓荒らしですらもがそうです。ということは、火葬、土葬、その他ある様に、婚姻の形式も色々あるはずです。これは、具体的なセックスの仕方ということだけではなくて、例えば、シャーマニズムなどで輪姦まがいの儀式の様なものが有り得るということにも妥当性が生まれてきてしまいます。ヒト以外の動物は、性交という事に関して、ただ単に本能のまままぐわうだけでしょうから、つまり、ここでヒトにおける性文化というものが成立することになります。これには、恋愛ということも含まれるものであり、例えば「男性が女性に花束を贈る」とかいったことも性文化の一つであるということになるでしょう。先述の「性交の行い方」というのは広義の意味でそういうことであり、「あなたとは出会う以前から赤い糸で結ばれていた!運命の出会いだ!」というのも、(それこそ)一つのものの考え方として、そのように帰結するものであるかと考えられます。




実は、私は今村仁司氏の著作を全て読んだわけではないのです。だから、今村仁司氏の言については、(質問者の方)のおっしゃる通りかもしれません。ところで、埋葬行為を抽象的な「墓」とおっしゃっていますが、それを(いわゆる)「抽象的」と捉えるのは、当該の特定の死者に関する記憶があるからでしょうか?もしそういうことならば、葬送儀礼(埋葬)が無くても、(物理的な墓が無くても)葬儀は成立しているということになり、それはヒト以外の動物においても該当するということになるでしょう。つまり、パールシーの鳥葬については私は存じませんが、その様なものは葬儀として見なされ得ないということではないでしょうか。つまり、ここで私は、「人間だけが死後の世界を想像できる」という今村仁司氏の説(が正しいとするとそれ)を否定していることになりますが、「弔う心」や「勝手に作った墓」があっても、「具体的な墓地(集団墓地であろうがそうでない墓地であろうがそれは同じこと)」が無いと埋葬は成立しないでしょう。特に論理が飛躍しているということは無いかと思われますが……今村仁司氏が、「墓を持つのはヒトだけであり、ヒト以外の動物は墓を持たない。これには例外が無い。」と、著書で述べておられるのは、本当です。つまり、これに従えば、私の申し上げていることは特に間違っていないと考えられますが……




「人間だけが死者を埋葬する」のですから、そこにはヒトが形成する社会における社会的合意がある。(質問者の方)がおっしゃる通り、かわいがっていた金魚の死について墓を作って献花したということから導かれるのはそれが立派な金魚の墓であるということです。つまり、それは「勝手に作った墓」ではない。その証拠に、貴方はそれを認めている。そこには、(何らかの)社会的合意が存在するということでしょう。つまり、「勝手に作った墓」の定義が明確でないというところに問題があるのかと考えられます。私は、そこにヒトが形成する社会における社会的合意が無いということで、「勝手に作った墓」を「墓ではない(何か)」であると考えています。しかし、貴方は、「勝手に作った墓」を「(墓である以上)墓である(何か)」とお考えの様です。そこにおいて、私と貴方との間に齟齬が存在するということでしょう。




ヒトの認知領域がどうこうとか言いだすと話がズレてくるので、ここではそういった事は申し上げませんが、"distrust and verify"が"verify to distrust"へと変換されてしまっているのではないでしょうか。後者は、死が訪れるその時はあくまで今の延長線上で、時間の問題が時刻の問題にすり替えられている。死後の世界というものについての想像力もよく働くかもしれない。私は前者を宗(旨)としていますが、その点では養老孟司さんと同じです。自分の死後(の)世界がどうなっているかなんて分からない。だから、「終活」は無意味ではない、という考えですが。だから、「終活」は無意味である、という養老孟司さんとは結論が違いますが、ものの考え方の本質的には同じでしょう。ヒトの一生を、死の宣告だけが為されて何時死刑が執行されるか分からない死刑囚のそれになぞらえそれを拷問であるとする哲学者の人もいらっしゃいますが。




「勝手に作られたた墓は墓とは見なされない」というものが社会的合意である限り、それを無視して、「これは(自分にとって)墓だ」とか「これは(自分にとって)墓ではない」とかいった表明を行うことは出来ないのですよね。つまり、(質問者の方)がおっしゃる通り、勝手に作った本人がそう表明する限り、その本人にとっては墓は墓であり、そうでない人にとってはそうではない。ただ、例えば、前者が「この街は俺の墓標(墓)だ」とかいった場合、後者は「なんで(俺らが住んでる)この街がお前の墓なんだ」ということになり、双方の間に軋轢が生じるでしょう。しかし、前者は、そう表明しているだけで、特に他人に対して危害を加えているとは見なされないでしょう。つまり、尊重が為されることによって互いの間に好ましくないものが生じるという場合もあると考えられます。逆もありきです。尊重というのはそういうことであって、リスクを伴います。そこに、(例えばこの場合だと「勝手に作られた墓は墓とは見なされない」という)社会的合意が存在する限りは。では、社会的合意の無い墓というのはどういうものであるかというと、例えば、「俺のものは俺のもの、お前のものは俺のもの」とかいったことがまかり通る何らかの環境、ということではないでしょうか。それは、只の戦場でしょう。






「「死刑はこの男への罰にならない」 死刑支持が多数派の陪審員が下した「生きて人生の痛みを知る刑罰」」というニュース報道に際して(西暦2023年6月15日記載)


例えば、戦争にルールなどある訳が無い。そのことに与する説を唱える者は、戦争というものがどういうものであるか理解していない。戦闘行為の為の戦争もしくは戦争の為の戦争を標榜する者は、戦争賛美者であり単なるゲームマニアである。戦争賛美者でない者は戦争において勝つことを第一義として該当の戦争に及ぶだろう。だからこそ戦争というものは、おぞましく、恐ろしいのである。忌避されるべき事態をそうではないと認識しろと人民に強制したい戦争賛美者達は、まさに第二次世界大戦中の大本営発表の如きものにコミットすることを厭わない。…法は犯罪の加害者の為にある。普遍的善悪についての分別の付かない者は現代社会においては排斥されるだけである。この点において、だが、「空気を読めない者は排斥される」というのは正しい。これは社会的善悪ではもちろん無い。この場合、社会的には責任の所在ということが重要となってくる。モノをいうのは法廷である。社会が法廷であるというのならば、(社会における「具体的」)法廷など必要あるまい。そこにある虚無主義、それはナチスのものである。"No one is above the law."とはよく云ったものである。「法は社会の反映である」。




「ガーナ、露穀物合意離脱に「深い失望」 国連安保理」というニュース報道に際して(西暦2023年8月4日記載)


西暦2021年5月29日付けの産経新聞(の朝刊)に、UNがイスラエルとハマスの戦闘中に起こった犯罪(?)について調査する云々、と、記載されていた。これは戦争である。連中における犯罪とは何か?戦争など犯罪に決まっていよう。戦争の犠牲となったガザ地区の二百数十人の一般市民やイスラエル側の十数人の一般市民は犯罪の被害者ではないとUNは言っているということである。「戦争において」犯罪行為を捻出する為には、まず犯罪である戦争を肯定してみせねばならない。war crime云々というのはそういうものであり、これにコミットする者は戦争賛美者である。「二度とやるな」とはナチスが残した教訓である。ところで、辛亥革命110周年記念において習近平氏がおっしゃっていることはとても建設的である。氏はあくまで社会に対する肯定感を人心において大切なものとしている。結果、中国は大きく発展した。一部外国のマスメディアはこれを強権と呼んで忌まわしきものと扱うが、社会に対するコントロールの効きをすべからく中国は実践している。ところで、アメリカの人々の一部は、自他におけるこれを、やはり嫌う様である。アメリカは、中国を最も深刻な地政学的脅威と位置付けた様であるし(単純にその様にして出来上がっている中国が(も)強いということであろう)、かつて自国内においてもバイデン大統領の提示する支出をGOPが拒んで深刻な問題になったという実態がある。確かに、中国国内における一部人権侵害を鑑みるに、問題点が無いわけではない。只、それは例えば汚職摘発等を行う中国共産党指導部の本意(もしくは本位)なのか?社会の構成員は善良人ばかりではない。社会に対するコントロールとはそういった観点からの意味合いもある。そもそも、アメリカにはregulationがある、ということを言う人も居るが、アメリカの社会主義化要素を嫌う人々においてそれが「どう」依拠されるかということが問題であるかのように鑑みられる。それは映りの問題ではなく、事はあくまで実践的である。「人々が自由のもとそれを成し遂げる」において、それは強権とは呼ばれないだろう。実は、それは恐ろしいことでもある。中国はそれで成功した。そもそもアメリカは中国の真似をする事を嫌うだろうが、アメリカがそれで成功するか?アメリカがそれで成功した場合、何が蘇るだろうか?ちなみに、「ブラックとブラウンだけ許可、ホワイトは禁止」という逆差別を、彼らはそれであると見做さない。私は、西欧的自由の行き付く先が、この無為な自己主張であると考えられてならない。実は、私はそれを「西欧的自由」と短絡的表現で云ってしまって良いのかどうか分からない。私はここで「自由からの逃避」という哲学者の残したものに関して高邁に言及するのではない。少なくとも我々日本人は、明らかに西欧文明の恩恵に与っている。何故ああなってしまうのか。もちろん、私は、自分の幸福というものは他人の幸福を前提としてそれからフィードバックされて返ってくるものではないかと考えてしまう属性の人間である。もし、私の様でない人ばかりであれば、人間社会も上手くいくかもしれないが、彼らはBefore Christにおいておおむね犠牲になる事が多かっただろう。




「米政府、食料や飢餓の「兵器化」非難 共同声明に91カ国・地域署名」というニュース報道に際して(西暦2023年8月4日記載)


少なくともこの側面において、プーチン氏は賢いということです。アメリカは、良くも悪くも、「与しない」分、実力主義であり、そのアメリカのブリンケン国務長官が「もうたくさんだ」とおっしゃるのであるから、これは相当なものだということでしょう。少なくとも現在、アメリカは、その一国では、全世界相手に戦えないということです。その分、アメリカは、世界をロシアに引き渡して(しまって)いる。

ロシアは活躍出来るわけです、その分。中国は、習近平氏が本当に戦争を嫌っておられるので、「自分達はグローバルサウスだ」と表明するということに相成ったりもしますが、プーチン氏は狡猾なのでもちろんそれも利用する。東側の協力体制は出来上がっていますから、後はゆっくり時間を稼ぎながら、西側へ「反撃」という形で攻めるだけです。もちろん、白人帝国の一環である、アメリカもこんな事は理解しています。だから、現在米共和党の人達が移民をひたすら排斥排除しています。そうやってアメリカ並びに世界を「良き競争が招かれる」体制へとシフトさせていこうとしているわけです。

だから、「戦争にはルールがある」という文言にも一理ありはするんですよ。その意味ではね。

アメリカは、アメリカ一国では、アメリカ以外とは戦えない。アメリカの最終的な攻撃目標は中国ですが、その為にアメリカはロシアと中国が(少なくとも表象的には)組んでいることを利用している。ソフト・パワーがハード・パワーの理由付けになるというのは、プーチン氏の思惑に見えて、実はアメリカの狙いでしょう。戦犯の捏造があるとすれば、善悪という此岸における裁きのことでしょう。裁きというハード・パワーで取り繕われる限りにおいて、ウクライナは四分五裂である。プーチン氏自体はソフト・パワーである。彼は自分で自分を裁いており、この戦争は(戦場として)「終わっている」。というのは、ソフト・パワーやハード・パワーというのは主に西側の人たちが使う言葉だからです。




「ジャマだし重い!「下駄を履いたゼロ戦」なぜ必要だったのか 日本軍が抱えた「仕方ない理由」とは」というニュース報道に際して(西暦2023年9月29日記載)


私は、実際第二次大戦時に戦地に赴いたというご老人から、ゼロ戦は素早かったがちょっとでも傷を入れられるともうダメだった、という話を聞いたんですが…。そのゼロ戦を重くするだなんて、まあ程度によるんでしょうが、大丈夫だったんですかね?結果で鑑みると、やっぱり大丈夫じゃなかったんでしょう。場当たり的な対処療法にかまける日本と問題を根本的に解決しようとするアメリカとでは、まあ勝ち負けも決まってるでしょうね。

私の見解も、場当たり的な対処療法的かもしれませんが、しかしまあ、戦争なんて勝ったか負けたか結果オーライの世界ですからねえ。少なくとも太平洋戦争という枠組みでは。…東条英機氏が開戦前夜に日本国民に対して「済まない、」といって涙したという話もありますが、日本は無条件降伏し、「次の」戦争はもう無かった。アメリカには「次の」戦争がいくらでもあった。最初から勝ち負けは決まっていたのでは?

(西暦2023年9月29日11時50分記載)




「レジ袋有料化は意味なし?「国のせいで…」プラごみ削減効果の実態は」というニュース報道に際して(西暦2023年6月3日記載)

例えばセブンイレブンのレジ袋の底に穴が開いているのは、例えばゴミ袋等他の用途に(なるべく)使わせず安いから別にいいやといって無駄には利用させないためかと思われますが……。拝金主義的な課金制度(自体)を否定するために価格を用いて逆調整ということもあるかもしれません。一袋5円という金額の尊さ。これが一袋100円とか1000円とかだったらばその理由で利用者は大幅に減り市民に環境のことを考えるということを(第)一義として浸透させられなくなるでしょう。環境省も見参推進。市民に自己研鑽を促すには「プラスチックバッグ一袋5円」(別に2円とか1円とかでもいいけど)あたりが現行の経済社会ではベストであるということです。

プラスチックバッグが欲しくて(例えばそれだけの)買い物をするという人は居ないはずだから、やはりこれは市民を啓発して自己研鑽を促す為ですよね。プラスチックバッグならプラスチックバッグで数十枚セットで数百円で売ってるしね。市民に(様々な、様々に)環境のことを考えるということを学習させる為でしょうね、やはり。

プラスチックバッグ有料化においては、経費削減(の為)という側面もあるということではないでしょうか。只、やはり、(体裁上?)「環境にやさしい」でコミットメントを前面に打ち出しておかないと、色々と不都合な事が起こるということではないですかね。個々人の死ということについてはこの限りではありませんが、企業にとっての最悪の事態は(その)企業が倒産することです。中央銀行が潰れないのはそういう訳です。つまり、それで客足が遠のいたら本末転倒なので、色々とバランスを取る為の匙加減があるということでしょう。
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