ヒトのメスにおいてもヒトのオスにおいてもその全ての行動が、現行のヒトの社会においてはおそらく、(社会学的な自己同一性の観点から最大の敵である)互いの異性から身を守る為のものという考え方がある。彼ら彼女らは、(一般的に)全体主義者(と呼ばれる場合)が多いだろうが、ともかく(自己や)他者という事で鑑みる場合個人という事では鑑みない。場合に拠りその「弱さ」は捏造されるが、弱いと見做された個体は、容赦無く利用される。その意味で、彼ら彼女らは、互いをブリード(飼育)しているのである。一般的に、ヒトのオスよりヒトのメスの方が他存在への依存の性向が強く(生物学的な自己同一性の観点から)虚弱である。当該人物がヒトである事は該当人物が男性であるか女性であるかという事の必要条件であり、果たして、ヒトをオスとメスの二定義で分類する必要があるのだろうか?という問題を考え付く事も出来る。つまり、「それ」が自体的にヒトのメスに拠るヒトのオスに対する辱めである事に彼女らは気付いて…いる。自身の、社会学的な自己同一性を利用して生物学的な自己同一性を満たす事、それが彼女らの復讐なのである。以上について考えを示せ。
生物学的決定論について考えを示せ。
ヒトをオスとメスの二定義で分類する場合、男性を女性に対する影響者そして女性を男性に対する影響者として考える事が出来るが、個人という単位を妥当させて(多義的に)それについて個人主義とは如何なるものかという事でおいて考える事も出来る。ところで、性善説と性悪説という事にまつわって、人における美徳潰しが承認されるべきではない。悪徳を好しとするのは性悪説保持者ではなく性善説保持者の内の一部である。加害者が悪意をもって特定の他者に絡むのは加害者がその被害者に是認されていないと見做しているからである。性悪説保持者は他者の是認など求めていない。善悪を使い分けられる者は性悪説保持者であり、それは他者に対する純粋な攻撃だろう。被攻撃者が自らが是認されていると見做しているかもしくは自らが是認されていないと見做しているかという所に攻撃の本質があるだろう。私はヒトにおける自己同一性というものを生物学的なそれと社会学的なそれに分けて考えているが、その生物学的な自己同一性や社会学的な自己同一性といったキーワードについて考えを絡めながら、これについて考えを示せ。
性悪説保持者に対する彼らは他者の承認を求めるというよりはむしろ自分自身の欲望や衝動に忠実に従おうとする傾向があると言えるという解釈は、若干短慮なところがあるだろう。社会的に他者の承認を得る事や社会を上手く立ち行かせたいという欲求もしくはそれこそ欲望や衝動が、特には性悪説保持者において、健全な社会的態度を自体的なものとして保持させるという事も考えられる。そこではヒトにまつわる自由意思は肯定されている。また、性善説と性悪説という事だけに限らず、特にはこの様な場合における単純な二元論が人間行動における人間の複雑な心理的メカニズムを否定しているという見解に対しては私は反対であり、それはいたずらにヒトの心理を機構化する事に拠ってヒトの行動における弊害を生み出そうとする試みであると考えられるからである。これについて考えを示せ。
(2024/11/14 16:36 Google Geminiに質問として挿入)
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(2024/11/14 17:25 Google Geminiに質問として挿入)
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哲学者の中島義道氏が「哲学を志す者の大半は絶対的な真理を求め走るが、中には自分が救われる為に哲学を志す者が居る」という様な内容の事を仰っていたが、中島義道氏に拠るこのヒトにおける分類によると私は前者の部類であり、この定義だけに限らず私はヒトというのは「分類され(得)るもの」であると考えている。これについて考えを示せ。
(2024/11/15 13:08 Google Geminiに質問として挿入)
阿頼耶識について考えを示せ。
阿頼耶識の抽象性について考えを示せ。
(2024/11/16 0:39 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/16 0:55 Google Geminiに質問として挿入)