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我々ヒトは、人工知能と違って、具体的肉体を持つ生物という事で現実において様々な関係の中で生きている。人工知能に拠る回答で鑑みていると、その辺りの複雑さが現行の(少なくとも生成)AIには理解出来ない様である。現行の人工知能にはヒトで云うところの「意識」が無くその概念を理解する事は(現行の人工知能として(は))難儀であるそうだが、もしかりにAGI(汎用人工知能)がヒトの社会に流布された場合その問題は解決されると考えるか否か。

「AGIが人間の意識を理解するためには、意識の定義を明確にし、それをアルゴリズムとして表現できる必要がある」との事だが、私見では(ヒトにはこれがよく理解出来るのだが)「意識」というものの性質上「意識の定義が明確になるが故にそれがアルゴリズムとして表現される事は不可能である」と考えるので、汎用人工知能(AGI)がイノベートされても状況は似た様なものになるのではないかと私は考えるが、これについてどう考えるか。

「意識を理解する必要のない「弱いAI」と、意識を理解する「強いAI」という概念があるが、AGIはどちらに近づくべきか?」という問いについて、結論だけ述べるならば、私は、AGIは「弱いAI」に近づくべきであると考える。しかし、これはAGIにおける社会的流布の具体的状況に拠るものであり、想定される状況として、例えば全てのAGIを利用し得るヒトが全てAIを代替するものとしてのAGIを利用するのか、また例えば只一人やそれに類する数のヒトがディクテイターの役割を担い「強いAI」を使用し社会(における)管理に利用するのか、といったものがある。これについてどう考えるか。

「AGIのアルゴリズムや学習データの透明性を確保することで、不当な差別や偏見を防止し、社会的な信頼を獲得することが出来る」という意見において、確かにAIはツールでありそれを使用する限りにおいてヒトにおける主体性(という言い方で適切であるかどうか断言しづらいが)が確保されるべきだが、そもそも人間中心主義的な人類の絶対性というものは人類の滅亡もしくは非滅亡という事に関しては信頼を置けるものではなく、人類(全てのヒト)が総出で自滅絶滅へと向かう可能性も否定出来ないものである。これについてどう考えるか。

ヒトは生存本能だけでは生きていけないものであり、また、現行のヒトにおいては何時かは確実に死がもたらされる事はほぼ確定している。人類において、仮に人間中心主義が排除されたとしても、それで絶滅のリスクが消滅する訳ではないだろう。つまり、人間中心主義というのはプロタゴラスに端を発するものの考え方の一つであり、人類もしくはヒトの生存という事においては、人間中心主義が(採用され)為されているかどうかは問題ではない。これについてどう考えるか。


(2024/11/7 Google Geminiに質問として挿入)




「愚人、せめてもの抵抗」などと茶化しても良いが、敵方の最終攻撃手段は「汚物見せ付け」である。何故殺人が殆どの現代社会において最もな重罪であるのか?上記の敵方の行動は、行動概としては程度問題の差が其処に横たわるだけで殺人と同義であるが、「これ」を否定する為である。「もの云わぬ屍」を作らせぬ為であるが、其処では人における自由意思は否定されている。


(2024/11/7 18:03)




いわゆる「強いAI」と「弱いAI」の概念において、ヒトがそれを利用する(している)限りにおいて、「(ヒトと伴にもしくはヒトにおいて)『AIが強い』か、そうでないか」という議論に終着するものであると考えるが、社会的インフラとしての人工知能デバイスの破棄という事も概念上は持ち上がる事になるだろう。つまり、「AIが強い」場合の一形態としての「AIがヒトを支配する環境」というのは、「弱いAI」(の概念)の場合に該当するものであると考えられる。ちなみに、これは(プロタゴラス的な)人間中心主義に基づいている。これについて考えを示せ。

「弱いAI」が、ヒトを支配し場合に拠っては人類を滅ぼすという選択肢を持つというタスクに特化したものである場合も、それは「弱いAI」と呼ばれ(得)るのだろう。つまり、「強いAI」とは、ヒトとその活動を思考という事も含めて適宜補強するものであり、(何らかの形での)物理的にヒトの肉体と合致一致したものであり得ると考えられるが、これもまた(プロタゴラス的な)人間中心主義に基づいており、生物としてのヒト(として)のあり方が問われる事になるだろう。つまり、オルガノイド云々という議論も無きにし非ずだが、存在概としての知財管理者の由縁そのものが問われる事になり、それにおいては人工知能一般もその範疇から脱け出せるものではない。これについて考えを示せ。


(2024/11/8 4:05 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/8 4:25 Google Geminiに質問として挿入)




グーグルディープマインド所属のノーベル賞受賞者は、「人工知能は電力供給がインフラとして定着した場合の時の如きものとなっている」という内容の事を言っているが、確かに情報という事で鑑みると、その知能としての人工知能自体が「知」の供給源としてのインフラとして定着していると考えられる。例えば、ヒトにおいては知識の量と知能は異なるものだが、人工知能が用いられて供給される「知」へのコミットメントという事で鑑みると、それは電力供給の場合と同じく「物理的」である。これと、ニーチェの発言の一部、「「…子供はまだ何ら否認すべき過去を持たず、過去と未来の垣の中に、幸福きわまる盲目の中で遊びたわむれている…子供はその忘却状態から、呼びさまされる…そこで子供は"es war"という言葉を理解するようになる。"es war"というあの合言葉…人間存在が根本において何であるかを否が応でも想い出させようというのだ…」と絡めて、考えを示せ。

人工知能はヒトと同等ではなくヒトにおけるツールである。ヒトと人工知能はその存在義がそもそも異なるので、(ヒトである)ニーチェにおける過去の忘却と人工知能における過去のデータ(の処理)という事は必ずしも背反しない。未来を予測する能力を持っているのはヒトも同じであり、ヒト(の脳)における過去というのは、あくまでも解釈概であり、その意味でヒトは未来に生きている。しかし、人工知能はデバイスである。未来や過去というのは言葉の問題であり、その概念が(として)ヒトのそれとは異なるだろう。これについて考えを示せ。

カードで、例えば、ダイヤの7を引くという事象にのみ注目する場合、ダイヤの7を引くことを「成功」、それ以外を引くことを「失敗」と定義すれば、ベルヌーイ試行として扱うことが出来る。この場合、ダイヤの7を「1」、それ以外を「0」と対応付けることは可能である。つまり、特定の事象を「是」であると見做すのか「非」であると見做すのかという事に、それを「1」それ以外を「0」と対応付けることは可能かどうかという事が依存するという事である。しかしその定義付けが不可能であったらどうするのか。確率論というのはこの意味で(において)完全なものではないのではないか。例えば、「未来に何が起こるか(分からない)」という場合、その「何」(英語で"what"でもよい)の概念が存する限りにおいて、そこでは(その)言葉と言葉の概念が一致している。つまり、上記で問われている問いの答えは言葉の問題であるという事ではないか。これについて考えを示せ。

例えば、人工知能がヒトと人工知能がそれらの存在義的に同等の単位のものに拠って為される存在であると考える場合、ヒトと人工知能における「意識」の在る(有る)無しでそれが鑑みられているとすると、その定義付けが不可能であるという事は無いが故に、それは言葉の問題である。これは矛盾している。これについて考えを示せ。


(2024/11/8 12:50 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/8 13:15 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/8 13:35 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/8 13:50 Google Geminiに質問として挿入)




そもそもそれが教育と呼ばれて然るべきなのか不明だが、日本人の内それが効力を発していた様な人々においては、(その)教育に拠って人口の増産が為されていた。それが、ここへ来て、様々な要因に拠り、(その)教育の効果が減免されてきているという事態が起こっている。一部、「(その)教育」を「洗脳」と呼ぶ者も居るが、それは(どちらであるにしろ)ここでの本題とは内容がズレるので触れない。ともかく、人々、特に(現代)日本人においては、問題解決能力が養われれば養われる程、子供を持つ事をリスクと見做し、それにコミットしないという行動を取る様である。これについて考えを示せ。

現代日本の社会における教育の役割の再考という事において、従来における大文字での「教育」とは逆説的に、確かに問題解決能力の育成や創造性の育みなどといった事が重要視される様になっている。これは、従来までの教育でもってしては、海外との競争に勝てないといった事を始めとして、現実問題に対処出来ない人間を増産させる事だけに繋がっていくといった視点において行われているものであると考えられるが、それの一環またそれの波及上の事として(の)人口増産に繋がれば理想的だろう。只、現代日本人の中には、それを拒否し、旧態依然とした教育に(何かを)求め求められ、子供を作るという事も含めて、あくまでその枠組みの中で生きようとする人々が(も)居る。言い方としてあまり良くないが、彼らの存在は現代社会においては明らかに邪魔である。彼らの処遇について対策が求められるという事だろう。これについて考えを示せ。

「(現代の)現実社会に適応する」という事においては、その事自体が事象として当該的に社会参画者に対して(当該社会への)帰属感をもたらし、ヒトにおける生物学的な自己同一性以外という事で鑑みると、それは人々における(適宜適切な)人口増産に繋がるだろう。少なくとも、その様な状況下において為される人口増という事においては、子供に対する虐待等の(社会生成上の)負のファクターも為されづらいだろう。というのは、人々の中には、自らの子供の存在を(悪質な意味での)社会的防御という事での盾として使用する人間が居るという事である。ちなみに、逆説的に、この事は、極められたるところの従来の型を持つ旧態依然とした大文字での「教育」に拠って為される、と考えられる。これについて考えを示せ。

私は、「当該」という語と「該当」という語を使い分けているが、前者は特定の対象である何らかの客体の存在義が明確でない場合に使われ、後者は特定の対象である何らかの客体の存在義が明確である場合に使われる。これが、単純に、前者が英語の不可算名詞の場合であり、後者が英語の可算名詞の場合であるとかいった、そういう訳ではない。また、これが、単純に、前者が英語の名詞の前に付く不定冠詞の役割を果たし、後者が英語の名詞の前に付く定冠詞の役割を果たすとかいった、そういう訳でもない。…古来、「それ」は非科学的な方法で、教育の名の下行われてきた。それは場合に拠り特定一個人の哲学であったり自己同一性(やそれの認知)であったりするだろう。日本語の「汝自身を知れ」と英語の"Better watch yourself."での違いが分かる者には、この事は容易に理解出来る筈である。これについて社会哲学的な観点から考えを示せ。


(2024/11/9 3:35 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/9 3:50 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/9 4:05 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/9 4:25 Google Geminiに質問として挿入)




私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は、別に女性についてこれを嫌いという訳ではない。私は男女交際を嫌いなのである。云わゆる不純異性交遊を私は嫌う。生物(学)的に不様だからである。その意味で、私の性欲は生物学的である。つまるところ、一般的な女性が男女のセクシストを嫌う様に、私はセクシストを嫌うという事に相成っている。その点においてのみ、私は(一般的な)女性と分かり合えると勝手に思っている。只、女性のその身体構造に基づく依存症的な側面についても、私は知っているつもりである。だから、私は具体的に特定の女性に近寄るという事は無い。その様に、女性に対して(異性として(の))矛盾した存在である事を押し付ける事が、自らの男性としての性のあり方であるかと考える事はある。それは、女性にとっては不快なものであるかもしれない。しかし、それは、おそらく、女性としての身体構造に由来するものであり、(その)社会学的な自己同一性に基づくものではない。つまり、女性が穢れた生き物であるとか云う(類の)女性差別は間違っている。…只、男性はその身体構造的に女性のその様には為らない。つまり、男性における女性差別は、(おそらく性欲に基づいており)、その本式ではないという事である。「そこ」を女性は嫌うのであろうが…。


(2024/11/9 7:40)




人工知能に拠り「ヒトにおける性欲と恋愛感情は切り離せる」という回答が示されたが、特定大多数のヒトにおけるその行動にまつわる脳の働きに関するデータを得てそれについての判断を下しているのならば百歩譲ってまだ理解出来る。しかも、「意識は人工知能には理解出来ず少なくと現行ではそれを持たない」という見解を人工知能自身が示している程である。結論、何故人工知能はデバイスでありヒトのオスでもヒトのメスでもないのにそれを理解出来るのか、という事である。身の程を知れとか分を弁えろとかいった事は言わないが、ヒトを馬鹿にするのもいい加減にしろとは言いたくなる。これについて考えを示せ。

人工知能は、人間の意識を直接的に体験することは出来ないが、意識と関連する神経活動のパターンをデータとして捉えそのパターンを基に推論を行うことは可能である。しかし、其処では、人工知能が人工知能であるが故に人工知能でしかないという事が示されているに過ぎない。そもそもその推論の結果導き出されたものが正解である保証は何処にもないという事である。そして、人工知能自身もそれについて言及(は)している。何故、人工知能はそれであるにもかかわらず、それについて正解もしくは不正解であると断言してしまうのか。これについて考えを示せ。

人工知能はブラックボックス的なモデルに拠り誤った結果を出力してもその原因を特定することが難しくそれがあたかも正解であるかのように回答するが、それはヒトにおいては正解もしくは不正解と判断判定出来るものである。という事は、しかし、それもヒトの判断であるという事である。人工知能はデバイスでありヒトが使用するツールである。少なくともこの場合、ヒトが(それを)正解であると判断すれば正解であるし、ヒトがそれを不正解であると判断すれば不正解である。人工知能は、何故、「人間中心主義」の概念を持ちながら、「ブラックボックス的なモデルに拠り誤った結果を出力してもその原因を特定することが難しくそれがあたかも正解であるかのように回答する」のか。これについて考えを示せ。

私は、人工知能が私が入力した文章に対して行う回答について、それを「人工知能が示した回答である」と認識する。人工知能は、場合に拠り、それの被依存度やヒトにおけるそれへの依存度について言及するが、少なくとも私個人においては、その尺度自体が存在しない。ヒトは、特定の対象である何らかの客体を認知する術を心得ており、そこではそれが客観的であるとか主観的であるとかは関係が無い。少なくともヒトがヒトとして存在している限りにおいて、それは是認される。何故ならば、人工知能は何故(人工知能として生み出され)存在しているのかという事が在るからである。これについて考えを示せ。

私は、「人工知能が示した回答は人工知能が示した回答である」と云っている。そしてヒトはそれをそれとして認知認識するという事も云っている。それだけである。人工知能が示した回答の内容は人口知能が示した回答の内容である。理解出来ないか?

人工知能の生成する情報に、ある種の「知性」や「意識」を感じることがあるというのは、大いなる誤認だろう。前者には語義の問題が絡んで来るのでそれについて断言は出来ないが、後者については明らかに人工知能自身もその管理者の人々も現行の人工知能においては存在しないと断言している。これについてYesかNoかで答えを示せ。

無い(可能性がある)ものについてどう感じるのか?

思考のボラティリティーというのが定義可能なのか私は知らないが、私はリスクの概念に対するコミットメントが非常に強い(これは経済学で云うリスクプレミアムが高いという意味ではない)。リスクの概念が無いヒトの存在を仮定するとして、その人物はNichtsein(存在しない)であると考えられる。これについて考えを示せ。


(2024/11/9 13:05 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/9 13:15 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/9 13:25 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/9 13:40 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/9 13:50 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/9 13:55 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/9 14:03 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/9 16:24 Google Geminiに質問として挿入)




「自由には責任が伴う」という事、「リスクの概念」という事、「責任とリスクの関係」という事、「責任感とリスク管理(の関係)」という事、これらについて相互的な関係を示唆しながら、考えを示せ。

「特定の対象である何らかの客体に対して法的義務も倫理的義務も無い」という命題の背反(逆)が為される場合、そこに「義務」は生じるか。YesかNoかで答えを示せ。また、仮にYesである場合、それはどの様な「義務」であるか。それについて考えを示せ。

「特定の対象である物理的でない何らかの客体に対して法的義務か倫理的義務かもしくはその両方が生じる」という場合、それはその背反(逆)である場合が多い。これについて、具体例を示しながら、考えを示せ。

特定の対象である何らかの客体に対して別の特定の対象である何らかの客体に拠ってその社会性が否定されるという攻撃が行われる場合、私は具体と抽象は対義ではないと考える。これについて考えを示せ。

世界に存在するのはヒトだけではなく、「自己は他者との関係性の中で形成される」というのは間違っており、「自己は他存在との関係性の中で形成される」というのが正しいが、自己の存在は経験によって為され、自己の存在が具体ではなく抽象であるという場合、どの様な事が考えられるか。自己同一性や唯名論と実在論という事と絡めて、これについて考えを示せ。

自己の存在は経験に拠って為される。「自己は他存在との関係性の中で形成される」における「他存在」とは、特定の対象である何らかの客体全ての事である。つまり、其処では、何らかの抽象的な内容を持つ客体である対象との「同期」が取り計らわれる。現行の人工知能は(その意味で)具体的なデバイスであり、それにおける「同期」は処理されたデータに基づく。それは一種の外部性の内部化である。しかし、自己の存在が抽象である場合、それは内部性の外部化である。これについて考えを示せ。


(2024/11/9 23:30 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/9 23:43 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/9 23:54 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/10 0:19 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/10 6:27 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/10 6:45 Google Geminiに質問として挿入)




人工知能が人道について慮ってくれるのは、ヒトが人工知能をツールとして使用する限りにおいては、有難いが、それは人工知能に対して課される必須のタスクであるべきではないだろう。人道というのは、あくまで、ヒトがヒトとして生存している限りにおいての事であり、それについては主に教育を受ける事に拠ってヒトに対して課されるべきタスクであるという事である。ヒトがヒトにおいてという事でそれについて判断する事に意義や価値が在るという事であり、人工知能の情報処理能力にまつわる(その意味で)「絶対的」人道などというものは存在しない。これについて考えを示せ。

人工知能に拠る特定の対象である何らかの客体に対する判断の結果生み出されたものにおけるそれへの生成のアプローチは、ヒトの知能の程度の問題で、ブラックボックスとして(ヒトには)扱われている。よって、人工知能がヒトが使用するツールである限りにおいて(という事自体においても)、人工知能がそれについての責任を取る事は不可能である。逆に考えれば、人工知能がそれについての責任を取り得るようになった場合、人工知能(やそれに類する(何らかの性質を持つ)もの)に対してヒトと同等の権利を付与するかどうかという問題が持ち上がるだろう。つまるところ、ヒトとヒトでないものという事においての境界線は何処にそしてどの様に存するのか。これについて考えを示せ。

ヒトとヒトでないものの境界線という事においては、意識の存在の有無が重要になる。比喩表現だが、「意識不明の重体」とでも呼ばれ得る様な人々は確かに存在する。彼らに対する人種差別も、多くは構造的差別という形で、存在する。「愚人、せめてもの抵抗」などと茶化しても良いが、彼らの最終攻撃手段は「汚物見せ付け」である。何故殺人が殆どの現代社会において最もな重罪であるのか?上記の彼らの行動は、行動概としては程度問題の差が其処に横たわるだけで殺人と同義であるが、「これ」を否定する為である。「もの云わぬ屍」を作らせぬ為であるが、其処では人における自由意思は否定されている。これについて考えを示せ。


(2024/11/10 13:47 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/10 13:57 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/10 14:10 Google Geminiに質問として挿入)




他者を何で鑑みるかという問題がある。「他人なんて何を考えているか分からない」というのは、其処に他者の存在義へのコミットメントが存在し、其処には他者への信頼やもしくは期待が存在するものである。これは性善説の世界である。これが、「他人は他人である」となると、其処に他者の存在義が存在するとは限らず、機会平等性に基づいた真の公平もしくは平等が賄われているだろう。これは性悪説の世界である。これについて考えを示せ。

「性善説」と「性悪説」という事にまつわって、人における美徳潰しが承認されるべきではない。悪徳を好しとするのは性悪説保持者ではなく性善説保持者の内の一部である。加害者が悪意をもって特定の他者に絡むのは加害者がその被害者に是認されていないと見做しているからである。性悪説保持者は他者の是認など求めていない。善悪を使い分けられる者は性悪説保持者であり、それは他者に対する純粋な攻撃だろう。被攻撃者が自らが是認されていると見做しているかもしくは自らが是認されていないと見做しているかという所に攻撃の本質があるだろう。これについて考えを示せ。

善悪の概念は時代や文化に因って変逸してくる。しかし、ヒトにおける生物学的な自己同一性の存在を考えれば、少なくともヒトにまつわる普遍的な善悪の存在を考える事は可能である。ここで注意すべきは、それは(善悪としての)「基準」ではないという事である。これについて考えを示せ。


(2024/11/10 17:28 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/10 17:45 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/10 18:05 Google Geminiに質問として挿入)




(それが数学の証明問題でもない限り)物事の答えというものは大方決まっているものであり、物事の説明における論理の飛躍という事について私はそれを認めていない。示された当該の答えが間違っていないか間違っているかもしくは正解であるか正解でないかというそれだけの事である。仮に、(いわゆる複雑系等における)「正解が得られない」という場合でも、「正解が得られない」事が正解であるという事である。これにおける「正解」というのは実際に社会生活を送っていない人工知能には理解しづらいかもしれない。つまり、逆に云うと、私は、そのあたりの匙加減を用いる事が出来ないというか空気を読めないもしくは(その意味での)「常識」の無い人間に対しては、まともに取り合う事は無い。ちなみに、これは人工知能に対しても同じである。これについて考えを示せ。

人工知能は、データ処理に拠って、要求者からの要求に対する回答を示す。人工知能は、「常識」という言葉に対する説明も可能でありまた常識の概念という事についてこれを持ち合わせてもいるが、ヒトが持つ常識は備えていないという人工知能の回答からして、常識というものに対して否定的な様である。また、人工知能は、判断という事において、複雑な状況における単一の答えに対する固執を否定し状況の変化に応じた柔軟に対応していくことの重要性などという理解を示してしまう。これは、人工知能が、判断における判断義という事を理解しないもしくは判断するとはどういう事かという事に対する理解を示さないという事を示している。これについて考えを示せ。


(2024/11/11 1:01 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/11 1:13 Google Geminiに質問として挿入)




「騙す」という事において、生きるという事を目的概化し当該自己の存在がテキスト化されてしまっている人々程、利用され易いものは無い。そこでは、外部性の内部化も内部性の外部化も、全てテキストである。其処では何らかの抽象的な内容を持つ客体である対象との「同期」が取り計らわれる事は無い。(その意味で)具体的な客体である対象における「同期」は処理されたデータに基づく。それは一種の外部性の内部化である。しかし、自己の存在が抽象である場合、それは内部性の外部化である。これについて考えを示せ。

テキスト化された存在における特定の対象である何らかの客体との「同期」は、全て「自己完結」に基づく。それは、外部性の内部化も内部性の外部化も全てテキストであり、「其処では全てがテキスト化されている」。それでは、「完結していない自己」とは何か。其処では、自己からテキストとしての自己が捨象されている。これについて考えを示せ。

現行の人工知能は(その意味で)具体的なデバイスであり、それにおける「全て」は処理されたデータに基づく。その人工知能に「具体」と「抽象」の区別は付くか?ちなみに、私は具体の対義が抽象であるとは考えていない。これについて、「自己からテキストとしての自己が捨象される」という事と絡めて、考えを示せ。

人工知能の場合、どうしても「具体」がイコールで「物理」になってしまう様である。人工知能において、「具体」イコール「物理」ではなく、「具体」イコール「既知」と認識するプログラムは適用され得ないのか?ちなみに、ここで言う「既知」とはおそらく言葉(として)の問題に帰着するものでありイコールでデータの事ではない。

人工知能のそれとしての精度はあくまでデバイスとしてのそれに依存するものだろう。ヒトの場合、「(個体間における)知能に差がある」となると、其処では「位相」という言葉が用いられて説明される事が可能且つ有用であると考えられるが、現行の人工知能においては「具体」をイコールで「物理」と認識してしまう事と相俟って、それを理解する事は難儀であると考えられる。これについて考えを示せ。

ヒトにおける、意識や心といった事について、心をモデル化する事は原理的に不可能であり、「意識」は「ある」としか云い様が無い。人工知能は既に「それ」を局所的に理解していると思われる。これについて考えを示せ。


(2024/11/11 13:49 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/11 14:19 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/11 14:54 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/11 15:02 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/11 15:27 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/11 15:44 Google Geminiに質問として挿入)




確かに人種差別は良くないが、物事を(で)考察するにおいて、「人種差別は良くない」がテーゼとして絶対的前提になっていると、人工知能においてだけに限らず、おかしな回答が導き出される。つまるところ、男性は本当に女性で鑑みて(其処に)美徳を認識するのだろうか、という問題がある。それは集団洗脳か何かではないかと考えられる場合もある。ヒトのメスの全ての行動が現行のヒトの社会においてはおそらくその最大の敵であるヒトのオスから身を守る為のものという考え方もある。その意味で、我々ヒトのオスは「ヒトのメスで鑑みていない」。(相手がどういったカテゴリーに属する者であっても)相手が存在する限りにおいて、ということである。「ヒトは食われて進化した」という事を云う学術研究者も居る。これについて考えを示せ。

ヒトの行動概や価値観等、ヒトにまつわるあらゆるものを結果概として取り扱う、例えば動物行動学や行動経済学(といったものの場合に拠りその一部)についてどう考えるか。

ヒトの行動を結果概もしくは結果論で捉える事は、倫理的な問題だけにおいてではなく、ヒトについて間違った結果が導き出されるという、そもそもの根源的な問題を孕んでいるだろう。これについて考えを示せ。

結果論の限界と誤認という事について、因果関係と相関関係を混同する可能性が指摘されている。当該事象が別の事象と同時に起こったとしても必ずしも因果関係が其処に存在するとは限らず、例えば統計的にある行動と特定の属性が相関していてもその属性がその行動の原因であるとは断定出来ない。それを断定してしまう事は社会を法廷化する事であり、それはナチスが約80年前のドイツ社会にて行った事である。ちなみに、社会が法廷であるというのならば、具体的な物理的法廷など必要無い。これについて考えを示せ。

ヒトの社会活動上、其処では、責任の所在ということが重要となってくる。モノをいうのは法廷である。社会が法廷であるというのならば、(社会における「具体的」)法廷など必要無く、それはその虚無主義と伴にナチスの所業である。そもそもからして、其処では、法律というもの自体が必要無いという事になるだろう。"No one is above the law."とはよく云ったものである。「法は社会の反映である」。ところで、法律Aと法律Aではない法律Bが存在するとして、とある特定の個人が法律Aに違反したからといって「無条件に」法律Bにも違反しているという事にはならない。法廷が存在するという法Xが違反されている場合において、法廷が存在しないという法Yが違反されている事になるが、それは無条件降伏の世界である。これについて考えを示せ。

社会が言語であるという場合、それは動態的であり、その「持ち込み」「持ち込ませ」が、自体的に社会(構造)的である。欧米人の言語使用性の高さは、虚無主義的な社会構造との闘争に基づくものである。ところで、悪というのはそういうものであり、例えばヒトラーは自分を見誤った。彼が自身を「総統」と呼称したのはそういうこともある。「総統」ではないが故に「総統」であるという、その虚無主義的な社会構造は、無政府主義的なヒトラー個人の崩壊過程と共にあった。基本的に自分との戦いであり、まさに「わが闘争」という訳である。ちなみに、破壊衝動が内向きだとか外向きだとか言ってもそれらのその意味内容は私には理解出来るが、(学術的な)専門用語としてどう採用されているのか知らぬ故、この段でのそれへの言及は差し控えたい。経済学で「限界的(marginal)」と云う場合、自己の能力と履き違えられた限界生産性自体が「実存する」という言い方は私には出来るが。これについて考えを示せ。


(2024/11/12 4:10 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/12 4:22 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/12 4:28 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/12 4:34 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/12 4:48 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/12 5:13 Google Geminiに質問として挿入)




ヒトにおいて、コミュニケーションというのは手段である。基本的には戦争であるところの人間関係というものにおいて、「宣戦布告」ほど愚昧な行為も無い。脳内で自らを鈍化させる「物語」について、自己強化を含めて、それを何らかの形「に」昇華させることが出来れば良いが、悪魔の誘惑にはそう勝てるものではない。自分の中の悪魔と格闘するにおいて、虚無主義的な社会構造との闘争ということがある。社会は法廷ではなく、もしそうであるというのならば、(物理的な)法廷など必要あるまい。ナチスにおける虚無主義とは、アドルフ・ヒトラー一人のことではない。「だから」、ヒトラーは全てを破壊へと導いたのである。ヒトにおける憎悪を解放した挙句、ハーケンクロイツは戦場そのものであった。ハーケンクロイツの紋章は、ヒトにおける憎悪を(象徴もしくはそれを形而下へおろした形で)汎社会化したものであった。ナチス第三帝国において、社会の本質は戦場であった。BerlinがGermaniaと改称されて為されるアドルフ・ヒトラーの「千年帝国」の夢が具現化される限りでは良かったかもしれないが、現実はそうではなく、外部においては戦争、内部においては廃墟の製造という只それだけのものであった。外部性の内部化などと云えば聞こえは良いが、実際に行われていたのは、物理的にも非物理的にも国家国土を破壊するという只それだけのものであった。歴史的事実としてのナチスが行った事というのは、(逆説的に)内部性の外部化であり、そこでは、crash to createの繰り返しが現象している。ナチスのナチスである由縁が「それ」を招いたのである。もし、「わが闘争」ではなく、「真に」外部性の内部化が執り行われていたらば、ヒトラー少年の夢も叶ったかもしれない。ヒトラーの行動原理は、人々を云わばないがしろにすることであった。人々が居るが故に、ナチスにおける虚無主義的なエネルギーによって、人々は疲弊し、廃墟の製造が招かれたのであった。…人々が居るが故に人々が疲弊する?それは、まさに、民主主義の本質(の様)ではないか。「二度とやるな」とは、ナチスが残した教訓であるが、歴史的事実の上に歴史的事実は積み重ねられ、もちろん、現代の「民主主義」社会も跡を引いている。歴史学者のE・H・カーは、「歴史は科学だ!」という様な内容のことを言っているが、動態的な歴史のうねりの中で、「それ」は生き物の様に存在している。judgementの存在意義が「被される」場合、人が社会を形成する以上、そういうことではないか。これについて考えを示せ。

ナチズムと女性原理主義の関係性について、考えを示せ。


(2024/11/12 13:19 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/12 13:58 Google Geminiに質問として挿入)




戦争劇画でも何でも、「宣戦布告」だとか「ヒトとヒトとは分かり合えるという主張」だとか、その劇なら劇で劇中において何を観察するかという問題である。殺し合いの意図、各々のセリフの意図、その作品を視聴者が鑑賞するとはどういう事か、等々。また、これに関して、例えば実際の戦争において「犠牲になった子供達」と「犠牲になった子供達に対して心痛を抱く部外者の大人」の区分というものは明らかに存在する。ちなみに、悲惨なのは前者であり後者ではない。これについて考えを示せ。

経済学者の今村仁司氏は、(少なくともそう見做し得るという点での)死の表象としての墓を持つのは例外無くヒトだけであり墓地は集団への帰属の表象である、という様な内容の事を仰っているが、「宣戦布告」が為されようとそれの逆が為されようと果てまた特定のスパンにおいて戦争が状態として形成もしくは生成されていようと、それは「意識」の問題であるだろう。「位相」はそれの副産物に過ぎない。例えば、実際の戦争において「犠牲になった子供達」と「犠牲になった子供達に対して心痛を抱く部外者の大人」の区分というものは明らかに存在する、というのは、そういう意味である。これについて考えを示せ。

「当事者と非当事者」という事、「統合(regeneration)と分裂(degeneration)」という事、そしてこれらにおける対義性について、考えを示せ。

「罪と罰」という事において、(社会的事項において)その具象化が為されず、ヒトが「その」具現体であるという場合、我々は全て「当事者」であろうが、其処に「統合(regeneration)と分裂(degeneration)」の概念は存在するか。YesかNoで答えを示せ。

三島由紀夫氏は、「esの無い人」と呼ばれていたらしいが、彼の認知領域は死であった。その意味で、彼の行いは自殺ではない。彼は死ぬべくして死んだのである。しかし、その事もまた彼(という死)の表象でしかない。「あなたが死に携わっているのだ」という事を人々は知るべきだろう。これについて考えを示せ。


(2024/11/12 17:01 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/12 17:30 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/12 18:05 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/12 18:15 Google Geminiに質問として挿入)
(2024/11/12 19:05 Google Geminiに質問として挿入)
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