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memo104

私Shinpei Sugiura(杉浦真平)のコミュニティーの様なものがあるとして、ところで、ゲートキーパーを行っているのは私Shinpei Sugiura(杉浦真平)である。そこの主任は、マイク・ポンペオ氏の様な強者でも、例えば宇宙人でも、誰でも良いのだが、ともかく、私は身分上最弱である。殆ど何も出来ぬ。只、ここで、拙文を書いているだけである。只、メンバー構成は私Shinpei Sugiura(杉浦真平)が決めている。そこでは、人の数だけ社会が在る。その彼らの社会学的な自己同一性が、ここを形作っている。「私の」テキストだと、私がこれを書いても、誰もこれを見做すまい…。

イエレン米財務長官がかつてから中国の過剰生産には注文を付けていた。G7がこれについて監視との事。古典的な経済学の考え方に拠れば、中国で生産された財が、安価で、しかも現代化された社会主義を標榜する中国においては高品質で、世界に行き渡る。とどのつまり、白色人種達は世界の(現代化された)社会主義化を嫌がっている。(現代化された)社会主義化が為されても良いは良いだろうが、それでは特にアメリカはロシアに与する事になる。現米民主党政権はそれを嫌がるだろう。「日本嫌いの民主党」と一般に云われるのも、日本人の社会主義的性向の高さが故である。では、米共和党員達が日本をどう見做しているか?言わずもがな、日本に核兵器を配備させるか、さもなくば日本に核兵器を炸裂させるか、という見地である。残念ながら、それは汎社会的には都合が良いだろう。北朝鮮などは、それを真の意味での解放とすら謳っている様だが、中国の思惑もあり、そこの辺りのバランスの取り方は動態的である。だから、国家間の関係は多元構造的であると云っているのである。それは、「インテリジェンス」の一言で任せられるものでもない。そう経済学(的発想)一辺倒で単純には行かないのである。もしそうならば、米財務省がホワイトハウスを乗っ取ってしまえば良い。しかし、そうも行くまい。というか、これ自体が経済学的な発想である。いわゆる「FRBの独立性の尊重」が為されているのは、FRBの力の大きさが故であり小ささが故ではない。

恐怖心は人々の社会的パフォーマンスを低下させる。人々の社会的パフォーマンスを上昇させるところのもの、おそらく巷で云われる「幸せ」の一言であらわされるものであろうが、それは、恐怖からの逃避によって為されるものであろう。恐怖からの逃避行動それ自体によってそれが為される訳ではない。…テキスト化するとこういったレトリックの問題に陥るのである。「恐怖から逃避する」か「恐怖から逃避しない」か、「恐怖から逃避した」が成立するものであっても、そこには類型的なものの考え方に基づくものが横たわる。つまり、これは人々の生物学的な自己同一性にまつわる問題である。「それ」を否定する事は人々は出来ない。

一部、人における死に勝る不幸は無いという言説について。罪の意識を持った方が良い。そして、恥を知った方が良い。死が幸福であるとは云わぬ。只、死はそこにあるだけである。現代日本人に限った事かもしれないが、ともかく、死に際の老人が(自身の?)死についてとやかく言う場合が多い。いたずらに人様の不幸を苛むつもりは私には無い。只、人は生物の死についての理解を当面のところのものとして差し置くべきではないだろう。…死について、生物学的な自己同一性における(社会的な)死というものがある。「死んだら一緒」というのは、生物学的な自己同一性における(社会的な)死である。…社会学的な自己同一性において、人は「既に」死んでいるのである。「その」死の観念があるから、人は物事の分別を付ける事が出来る。他者の遺伝子を凌駕しようとするその行為が明らかに失敗である事は云うまでも無い。病(の概念)の無い世界(病気によっては病識の無さが取り沙汰されるものも在るが、その判定基準としての診断基準は医師に拠って取り決められており、医療の現場で医師が具体的判断を下す。その線引きは言うまでも無く医師に一任されているという事である。…病(の概念)の無い世界では、人は皆異常者という事であるか、さもなくば医師は皆ネクロマンサーと化すという事だろう。各人の異常さにおいてそれを個性であるなどと云うのは詭弁に過ぎない。グロテスクなネクロフィリアが人に向かって個性、個性と云う。)。人は黒死病患者の様に死んでゆき、人口再生産はそれに勝らんとする勢いで為される。それが良いのか?それは、性病云々という陳腐なメタファーで代替されるものでもない。「性病」が病気でないというのならば問題として別だが。


(2024/5/26 13:55)
(2024/5/26 23:15)
(2024/5/27 13:16)
(2024/5/28 1:26)
(2024/5/28 6:23)




「タイムパフォーマンスを求めるのであれば、最も適切なのは死ぬ事」という意見があるが、これは私の様な者に死ねと云っているだけであろう。逆に云わせてもらえば、経済学など民俗学に過ぎない。経済学は愚民のフォークロアであるという事である。悪徳と努力の相の子達が、経済学を生んだ。economic scienceと云われる由縁は、それが科学である事を物語っており、絶対のものではなく、我々人類が生きる為の知恵の一つであるという事である。ヒトが生物として生きているという事が、どういう事であるか、経済学(だけ)では突き詰められないだろう。…科学的態度というのは、概して女性的である。そこでは、「生存そのもの」が第一義として来ている。


(2024/5/29 5:58)




最近あった、「若い男がモデルガンの様な物を使い女を脅して危害を加えようとした事件」について、当然の如く該当の男のみがこの事件における犯罪者であるという事にされ少なくともマスコミはそう報じているが、加害者(役)の若い男・被害者(役)の若い女・それを事件として報道するマスコミ、全てグルである。これが愉快犯でなければ、では誰が被害者か?という案件にもなろうが、これにおける被害者はモデルガンとその製造業者である。(日本の場合に限られた事かもしれないが)マスコミはそうは報じず、当然これは社会秩序に対するネガティブキャンペーンである。ノーベル賞経済学者のジョゼフ・スティグリッツ氏は、最近、「自分は嘘の情報を意図的に流す人々について知らず、人々の邪悪さについて無知であった」と述べているが、それは米CIAに限った事ではなく、日本人というのはそういう事を行う民族性の持ち主なのである。日本人というのは(公式の)社会主義国家の国民以上に社会主義的性向が強い。勿論、日本とアメリカがその本質的に仲が悪いのは当然である。私は後者の部類だが、日本において排斥されるのはその意味で納得である。理解出来るであろう、過去日本国とそれ以外がどの様にして戦争になったか。戦後、力の強い方が国家を支配した。当然の成り行きである。「左派」というのは、そうやって足蹴にされた連中の吹き溜まりとして出来上がっていくのである。邪悪なのはどちらか?"Justice is power."ではなく"Power is justice."である。ものづくりの精神を否定する気は無いが、連中においては、武器を持つと使いたくなるらしい。


(2024/5/29 13:24)




取り敢えず、私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は煽っている。何を?ナチをではない。次に排除されるのは、ユダヤの民ではない。次に排除されるのは、ヒトのメスである(「尊い自己犠牲」とやらで彼女らが美化される必要は無い)。アメリカ人は、その点、結構良い顔をする。イギリス人は、本当の事を教えてくれた。…若い女。邪悪なる者、邪悪の一途。ある特定の者らに対して、外国人は優しい?馬鹿も休み休み言え。我々は彼らの手の内で踊っているのである。我々はまず、彼らに、生物学的な自己同一性を与えられた。その次に、社会学的な自己同一性を与えられた。それを逆だと思い込んでいるのである、現代日本人は。我々の同胞には、ヒトの恐ろしさを知らぬ者が余りにも多い。仮に、先に社会学的な自己同一性を与えられ、次に生物学的な自己同一性を与えられた場合を想定してみよう。それは、アダムとイヴの世界だったり、例の「終わりの風景」だったりするだろう。かつてヒラリー・クリントン氏が仰っていた、「何故(日本人は)自らにハンデ掛けてしまうのか」と。排除する力は正義の賜物である。そんなにsubjectとしての正義が欲しいのならば、私はそう教えよう。

好戦的で社会主義的性向の強い我々の祖先は、西から東へと追いやられて来た。この間、靖国神社に「便所」と落書きをした不躾な者が居たが、国体の保持手段としての天皇制を否定するのであれば、それもまた然りだろう。殺し合わせる者と殺し合わされる者が同値になる結果が天皇制であるなどという見識を私は認めていない。生かされもせず殺されもしない農民性は、我々の祖先のアイデンティティだったのかもしれないが、我々現代日本人は違う。その点、現代日本の若者の子供を作らないという選択は正しい。グループでの男女交際など、彼らは日本人である事の利点を色々と考えてよく研究している。過去の事は実証出来ない。歴史は物事の学習の為の教材である。何の為に人が歴史を作ったのか。

太古の昔、死は今よりもっと人々の近くにあった。単純に為される性交、教育の概念は希薄、そして結果あまりにも安易に勃発する戦争…。技術革新のスピードは現在より格段に劣っていた。同じくして、社会の崩壊のスピードは速く、もしくは大勢の犠牲の上に特定のカテゴリーが成り立っていた。それを貴族と呼ぶのは容易い。しかし、彼らの社会的立ち位置もそうでない者のそれと本質的には同じであろう。アウトサイダーも含め、特定のカテゴライゼーションへの欲求が社会を形作らせまたそれを崩壊へと向かわせていった。それの基軸が技術革新であったとは云わぬ。短期的にヒトが生物学的に進化する事は無かっただろうが、技術だけが人類の賜物ではない。それを性衝動に求めるのもまた間違っている。一つ例外がある。我々である。「我々の」集団に対する希望的観測が、上手く平和的希求を形作らせた。和食、日本語、その他の様々なものが「我々において」当該的である。外部性の内部化というのは、我々の為にある様な言葉である。逆に、西洋の歴史は内部性の外部化である。「それ」においてのみ、我々は西洋人からして理想的である。その理(ことわり)をユダヤ民族に求めるのは容易いが、それだけではない。死が身近にあった分、過去の人間はエネルギーに満ちていただろう。彼らは考えた。人々は、只生きている者を、許さなかったのである。答えは最初から決まっていただろうが、人々が織り成すダイナミズムが故、様々なものが残った。ナチスが敷いたのは、当時の日本の社会の表象ではなかったか。その意味でアドルフ・ヒトラーは我々の如くのものであるが、彼は無論アーリア民族としての特性も備えていた。だから戦争になったのである。今、「世界が我々の表象となっている」のである。それをディープステートの一語で表すのは容易いが…。

人は被害(者)感情に絡め取られ易い。「自分達の祖先は」と云う場合、(それが無意識的な否定であれ)ほぼ必ず弱い(方の)血統を探し出しては取り沙汰す。母親という存在がそれの良い例である。日本人は、元来的に穏やかで、清楚で…などと云う場合、それにおいては我々の弱い方の血統が取り沙汰されている。皇族を弱小のものとして見做す気は私には無いが、現代日本において皇室の人々がその様に日本の象徴としての役割を担っている事は否定出来ないだろう。(現代)日本人がその本質的に弱さを美徳としている訳ではないだろうが、西洋人の場合平和は戦って勝ち取るものであるに対して、我々において平和は(為す術無く)与えられるものである。我々の祖先は、戦いの遺伝子を組み込まれるに相応しかったのである。(その結果)、現代日本人がどうであるかは言を待たない。…空を焼かれて、原爆まで落とされた。残酷な様だが、我々はもはや、弱さを美化するしか無いのである。好戦性と戦闘能力の高さは必ずしも正の相関を示さず、好戦的その他で社会性の低い者がそれ相応に扱われるのは言わずもがなである。現代日本の象徴天皇制は(その左翼全共闘的な)「それ」を天皇陛下(という形)によって具象化しているのである。ナチ党の党大会の最前列はヒトラーを崇めて泣き崩れる婦女子で占められていたそうだが、それもまた納得のいく話である。

社会には、悪意の為の悪意というものを志向する人々が居るらしい。(私見では)、それは精神科医に拠って何らかの精神病(質)と診断を下されるだろうという事だが、ともかく、それはサタニストの(における)それなのか涅槃なのか、日の当たらぬところのものである。彼らは「何でもやる」のである。「戦争だから」という理由付けは、戦争であるという認識もしくは意識の存在を示している。彼らにおいては、理由付けなどどうでも良く、彼らには自意識自体がまず無い。自らがどういった行動を取っているかという自覚意識自体は彼らにおいて在るが、つまるところ彼らはエゴを滅却したところで自身を「両立させる」事が出来るのである。私が云うところの生物学的な自己同一性が彼らにおいては無く、「生きてさえおれば」という慣用表現で表される様に、彼らは聖アウグスティヌスの如く「神の国」の住人たる事を志向出来る人々なのかもしれない。…自己同一性という事については、生物学的なそれを差し引く分、彼らには、(私の定義に拠れば)、社会学的な自己同一性が残り存する。プラグマティズムや行動経済学といった学問は彼らを当該的に対象領域として取り扱ったものである。


(2024/5/29 17:21)
(2024/6/3 15:35)
(2024/6/3 18:03)
(2024/6/4 11:05)
(2024/6/4 20:58)
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