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memo99

「上」から警告入りのメッセージ。"crime of the victims"。人の正体を暴く。私は鏡の様なものである。只、私は自ら他者に対して「これが貴様だ」と云う事は無い。つまり、その様を形而下へ堕としても、物理的な鏡が析出されるだけの事に終始し無様である。むしろ、それがサタン(の正体)であろう。


(2024/3/24 21:55)




歴史に名の残らぬ人々が、在野のままどうあったかという事については一見一考の余地があるだろう。経済学者の今村仁司氏によると、墓は集団への帰属を表象しているそうだが、"To be or not to be, that is the problem."を「生か死か、それが問題だ。」と訳出する事における妙技は、ヒト以外は墓を持たないという事が「生死への隷属」か否かという事をヒトにおいてあらわしているという事を示している。つまり、「あるのかないのか」と云った場合、既に埋葬されている人々にとって全てがある訳が無い。墓標が立つ事と単なる生き埋めが履き違えられるべきではない様に、死と無が履き違えられるべきではない。唯一物が練磨されても、それが変化(へんげ)する事は無い。

人の事を悪く言うものではないというのは、人間関係の基本だろう。あまり、自己の領域もしくは自己というものの可効範囲を過信すべきではない。他己認識を先入観や偏見で誤ってしまった場合、自己が他者の奴隷である事の証拠作りを行ってしまう事になる。それは死荷重である。確かに、社会には、第一手目で助けてもらわねば存在として欠陥があるかの様に見做されかねない人々も居る。しかし、いたずらに助けを他者に対して乞う事は、上述の通りのものである。「それ」が真の相互扶助であるというのならば、その様な人々の織り成すコミュニティーでは、人々には法も必要無いだろう。


(2024/3/07 16:17)
(2024/3/08 20:09)




女が(男における)女が望まない様な社会形態を生み出し、その種(たね)である男と女を生み出す元となる。その様に、ヒトの社会というのは、義的に多元構造的である。「社会を良くしよう」だとかいったテキストや、逆に反社会的な何らかを標榜するテキスト等、何らかのテキストを自己にまつわって社会に対するものとして用意する必要は無い。人類が人類の都合に合わせて生きようとするその方向性や立ち位置をテキスト化する必要は無い。ヒトに自己同一性が在る限りにおいて、(自己)認識が一義的であるのは当然だが、「それ」は必ずしも一義(化の産物である)という事ではない。「言葉の世界に生きている」という表現で表される人々が居る様だが、どうしても彼らは、それがどの様な形態を取るものであれ、テキストの世界しか認知出来ない。私に言わせれば、精神医学の用語とは関係無く、彼らは世界から乖離している。そこで、あの、忌まわしい、「物事における『横のつながり』」、関係妄想とでも呼ばれ得るべき精神病質の産物が(社会的に)捻出される事になる。


(2024/3/01 12:48)
(2024/3/03 7:59)
(2024/3/03 16:59)




「民主主義は数」らしいが、それではやはり私は民主主義の信奉者ではないという事だろう。では、「社会主義は質」か?そもそも民主主義や社会主義とは何か。その様な政治体制下にある社会の事か?それでは、その様な政治体制を為すものは何か?つまるところ、何処へ行っても社会がそこに存するのである。何がどう取りまとめられ区分けされているかという事に過ぎない。「自由には責任が伴う」という事において、自由より責任が先に来るというのは先述の通りだが、その責任の重さの程度の問題がそれぞれについてあるという事である。

「生きてさえおれば」という言い方でそれを示す人も居るが、人は関係し合いながら生きているという事であり、どの様な状況下にあっても、貴方がどういった行動を取るかという事(に問題の本質があるもの)である。圧が強い分だけ自由も多い。(では)、自由という事について、肉体は究極の柵(しがらみ)である。肉体が無ければ、不自由も無いだろうが、自由も無い。つまるところ、我々には肉体が無ければ何も無いのである。只、これは自由が不自由の背反ではない場合である。では、自由と不自由が背反である場合、無駄な行為の概念がそこには無い。「民主主義は数」であるという事ならば、それは非社会的であるという事である。「だから」、政治家は不正を司るのであり、政(まつりごと)とはそういうものである。


(2024/3/02 11:19)




一つアナウンスしておきます。「X」(旧ツイッター)の方はしばらく更新しません。3か月で724レスも書けば充分でしょ?またしばらくはこれらブログをゆっくりと更新していきたいと思います。

余談ですが、最近、どうも私が、外へ出ると、女子大生から小学校高学年くらいの若いお姉ちゃん達が絡んで来る。ハッハッハッ、私というオジさんは金など無い上に、臭くて汚い。ハッハッハ。


(2024/3/01 16:05)




女にいたずらに性欲を掻き立てられたら、ポルノ女優を鑑賞するなり風俗店へ通うなりして楽しんでおくのが正解である。ヒトのメス一般を個人的に相手にするという事については高過ぎるリスクが存在する。自分が女に好かれるだとか好かれないだとかは関係が無い。ヒトのメスがどの様な手練手管で何をやらかしてこようとも、全てパージする事。商売女達はその辺の社会的生理を全て理解して事に及んでいる。その意味で芸能人の女などというのは悪魔的である。彼女らも商売女だろうが、前者とはヴァルキリー(ジャンヌ・ダルク)か魔女かという所で本質的に違う。挑発・誘惑・駄人口増産…。無い方が良いものをひたすら生み出す悪魔的な奴らこそが真の意味で売春婦である。巷を見よ。奴らよりも綺麗な女など幾らでも居る。奴らの娼婦ぶりは異常である。…残念ながら、社会には強姦されて当然というヒトのメスも居るのである。奴らをその存在の本質的に責める事は出来ない。しかしそれならば(社会的)自虐を為す加害者側についても同じであろう。サルの延長線上に過ぎない我々ヒトという生き物は、所詮その程度のものなのである。リスクは徹底して排除していく事。それは、社会的リスクについても個人的リスクについても同じである。それが我々の生きる道である。結果、種が滅びようとも、(本質的に)知った事ではないだろう。

その意味で、私は、社会学者の宮台真司氏は、フィールドワークと称してそれを行う事について、本物の学者であると考える。同氏は、自らにおけるリスクやリスク選好まで学術の題材にしている。物事を客観視したがる、芯からの学者気質の人だと思う。


(2024/3/01 15:34)




私Shinpei Sugiura(杉浦真平)は、勿論人の好き嫌いはある。尊敬(や軽蔑)というと怪しいが、あの御方は好き、あの御仁は嫌い、というのはある。只、ヒト対ヒトでコミュニケーションを取る以上、そういうものはあまり表に出すべきでないと考え、思っている。やはり、他己に対するそういった感慨というのは、どうしても頓挫する様に考えられてならない。何故ならば、自己と他者は別の存在だから。それを克服しようとする人の試みがセックスなのかもしれないが、やはり肉の軛からは逃れられない。「死んで一緒になりましょう」は、その様に物理的な意味では、何でどう鑑みても失敗だろう。「さよならだけが本当だ」もまた、その様に物理的な意味では、失敗の様に私には思われる。「何も無い」と太宰治は何処かで書き記していたが、マテリアルワールドの虚無主義性には誰も勝てないのである、その点では。「貴方がそれを望むのならば」で何でも叶う訳ではなく、それは只単に"Stub me in the back."の世界だろう。救われているから救われていない、もしくは、救われていないから救われているという、その矛盾が、プロタゴラス的な人間中心主義を形作っており、それは「君の為なら死ねる」という(具体的)法でヒトが裏付けられている社会である。無論、これは、(具体的)経済でヒトが裏付けられている社会ではなく、それは「愛する者の胸に剣を立てよ」の世界である。村上春樹氏が「世界はメタファーだよ」とどこかで書いておられたが、それは環境に対する能動でも受動でも環境との調和でもなく、judgementの存在意義が被されるその事だろう。


(2024/2/27 23:02)
(2024/2/28 1:07)
(2024/2/28 20:29)




改革の為の政治、つまりは政治の為の政治など必要無い。政権奪取を第一義としたそれの為の政党など存在するはずもなく、何を慮ってか現在の日本の野党は岸田文雄首相に対する個人攻撃に終始している。まるで与党内の彼の政敵と思われる人々の片棒を担いでいるかの様ですらある。そもそも政敵と云う言い方自体がおかしいだろう。野党の面々、与党内の敵、日本のマスコミ…。現状に合わせて極めて精緻に政策立案遂行を行う政治屋(言い方が悪くて申し訳ない)に対して、「司っているのは自分ではないから」という理由でひたすらその足を引っ張る連中が居る。そもそも国民の為の政治とは何か。国民とは何なのか。日々の生活に隷属する事が間違っているとは云わぬが、生死に隷属する事は間違っているだろう。"To be or not to be, that is the problem."と云う場合、それは「生死への隷属」とは違う。…確かに、特に自己にまつわる不可抗力というものは在る。只、それを知っているのなら、物事を取り決めるのは自己自身であるという事も理解出来るはずである。「貴方が死に携わっているのだ」と云う事が間違っているのなら、「君たちはどう生きるか」と云う事も同じく間違っているという事は否めないだろう。


(2024/2/27 23:02)




つまびらやかな罪状感が、私の右手親指にはめられた二つの指輪と右手人差し指にはめられた一つの指輪によってもたらされる身体感覚によって代弁されている。…これは、罪悪感ではなく罪状感である。それは固定的である。

欧米の人々に比して、中国の人々は、日本人における日本的気質について寛容もしくは理解がある。故大江健三郎氏の亡くなったのに合わせて彼らが出した声明文には、同氏を「日本の良心」と形容し位置付けるものがあった。何処かの馬鹿な日本人が同氏を「日本の恥」と評したのとは大違いである。


(2024/2/22 14:18)




「白痴」というのは私Shinpei Sugiura(杉浦真平)の為にある言葉ではなかろうか。「シロにしかなれない」などと云えば聞こえは良いが、その様に奇麗なものではない。

私は自分について、集中力が無いという自覚があったが、どうやらそうではないらしい。…そうとうに集中力が高いのではないか?

どうも、私に限った事かもしれないが、自分についての(社会的)キャラクターを設定するのは、それが特に自意識的なものである場合、もしくは特に自意識にまつわるものである場合、大いに馬鹿げている。それは、豚の所業であろう。…豚についての形容に「嫉妬豚」というものがあるが、"Better watch yourself."と云われるべきは私(自身)かもしれない。

アメリカにおいて「左」とはリベラル「右」とは保守を指すとは云っても、ヨーロッパにおいてそれが逆転しているという単純な図式で物事語れるものでもない。例えば、同じキリル文字を使用しているギリシャとブルガリアでは地続きでも全くその文化は異なっているし、日本ではセットで語られる事が多いブルガリアとルーマニアにおいても全く異なっている。ルーマニアはラテン系の民族の住まう国だが、右派の体制下に永く在った。単(ひとえ)に、例えば「(第二次大戦中の)フランスとドイツ」の様な図式が、例えばルーマニアとハンガリーについて当てはまるわけでもない。…ルーマニアには拷問で有名なウラド・ツェペシュ公の居城だった城がある。私は、ヨーロッパで最も美しい駅と云われているシナイアは訪れたことがあるが、ブラン城は残念ながら訪れなかった。


(2024/2/21 22:14)
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