忍者ブログ

card

memo97

マイク・ポンペオ前米国務長官が、23日、読売国際経済懇談会で講演を行った。同氏は、(地域の安定の為)中国や北朝鮮に対して日本やアメリカその他の国々で価値観を共有し団結してこれらを抑止する姿勢を見せねばならないという内容の事を仰ったそうだが、このポンペオ氏の発言は興味深い。同氏は、(中国の習近平氏は)ウクライナ情勢やイランの動きを見ているとも仰っているが、日本の経済界のトップが中国へ代表団を派遣したのもこの日である。「日本の思惑がどうであろうと」(ポンペオ氏において)それは政治力学的である。アメリカは困っている友人を見捨てた事は無いとの事だが、これは北朝鮮や中国のインテリジェンスも当然理解している事であるところの、世界を手玉に取るかの如くアメリカは汎社会的な力を効かせようとするという事である。アメリカも皆自国の社会的役割は理解しているとポンペオ氏は仰る。"Justice is power."ではなく"Power is justice."である。汎社会的なコントロールを効かせるという事がどういう事であるか知られたい。

例えば、著名人の人々は、それについて、公の場で何らかの対象である客体に対して語り掛けるという形での発言をするという事はあるだろう。彼らもまた戦場に生きている事に違いは無い。只、著名人でない人々の場合、戦場となると、そこにおいて、会話など成立しないだろう。有益なツールとして、彼らにおける嘘や合図という事はあるだろう。自らにとって望まない状況の作成に加担する者に対して(その是正を勧告する等で)味方(を装う者)は、その是正(を試みている)に過ぎないだろう。それを相手に見破られていることを知りながら、さらにそれを試みる者は、その相手(において敵対行動を取っている)と見做されるだろう。その対象が目的概化している時点で、その対象は私より力は下である。つまり、その対象は私の味方ではない。つまり、その対象は私の敵である。私がその対象に対して是正を勧告する等を行うことは無く、その対象が私に対して是正を勧告する等を行うことは有るだろう。目的概化というのはそういう意味である。自分の何たるかを他人に押さえさせるなというのは人間関係の基本だろうが、明確に味方であると認知できる相手に対してはそれも有りだろう。味方とは、力関係の上下にまつわるところのもののそれである。力とは、目的概化を排除する能力のことである。

"Does your effort contribute to your prejudice?"と云われた愚人が居たとして、努力というのはそんなものではないかという事である。目的概化されたものというのはそういうものである。


(2023/1/14 15:43)
(2023/1/14 16:23)
(2023/1/14 18:15)
(2023/2/8 11:42)
(2023/2/8 12:50)
(2024/1/24 0:01)
(2024/1/25 10:40)
(2024/1/25 17:35)




例えば学歴詐称や職業詐称を行う者において、当該人物における該当性に対する是認の欲求という事がある様である。余りに子供じみた「甘え」の構造に基づくそれは、非行の典型である。彼らは、目的概化された自己(同一性)が故に、世界をそのまま受け入れてしまう。否、彼らにおいて、世界はそう受け入れられるべきなのである。彼らは、思惟や欲求のままひた走る。というか、彼らにとって、思惟や欲求というのはそういうものであり、世界は(概化された)テキストなのである。世界がその様にあるという事は、不確定要素が(世界内に)多分に現れる。彼らにおけるリスクプレミアムは概して高い。むしろ、「確実に不確定である」出来事を志向している。タナトスが精神の分裂をもたらさないという詭弁は、人を「食ってる」輩の(一種の)avariceである。客体が客体である事のdegenerationが、どれだけ生きる上で不便であるか、その内分かる時が来るだろう。


(2024/1/23 15:07)




社会主義社会においては、マフィア的な人間集団が人の上に立つという様態が招かれる。この様な例は歴史上枚挙に暇が無い。所詮我々人類は猿のなれの果てである。猿がサル山の上でボス猿を頂点に威張り腐るその様は、ヒトが形成する社会における特には(旧態依然とした大文字での)社会主義という形で具象化されている。先のマフィア的な人間集団というのは、ヒトの生域形態上そういった現象が起こるという事であって、ひいては資本主義・民主主義・社会主義という分類の仕方がそれら自体として目的概化されたものである。社会主義というのは、その様に歴史概的であり、汎社会的である。社会主義に対して「社会主義」という唯名を与えるという行為自体がヒトの生態に対する冒涜である。


(2024/1/22 16:09)




対象である客体がregenerateされていればされている程、キャラ立て孟々しい現代日本人には良い薬になるだろう。勿論、ここで云うregenerateとは読んで字の如くであり、日本語で「統合」というと語弊がある。客体が客体である事のregenerationが、どれだけ生きる上で便利であるか、その内分かる時が来るだろう。


(2024/1/22 1:11)




取り敢えずの、似た様な連中。属性Aと属性B、C…で争っている様に見えても(見せ(掛け)ても)、実態は共謀。いわゆるグル。悪党帝国だから。それの別動隊という事に過ぎない。そこのあたりの事をきちんと突いて断罪しているエニアグラム研究者の竜頭万里子さんの様な方もいらっしゃるが(頼るだけ無駄、すべては観察力との事)、特例措置ありき警察は日本国の法律に則ってしか動けない。

行動経済学?無駄。やめた方が良い。経済学は、基本的に、ヒトの行動を裁くもの。該当の行動イコール当該のヒトではない。


(2024/1/21 17:39)




生命体としての知能の具合と、生物としての賢愚は、別である。ヒトが、その形成する社会において社会的評価として大いに求めるのは、現代では、前者である。流動性の存在が、ヒトが形成する社会自体によって裏付けられている様な古典的な社会形成のパラダイムにおいては、後者で特質的に鑑みられていたのかもしれない。前者が表象的結果として重んじられるのはアメリカであり、後者がそう妥当するのは第二次世界大戦以前の日本である。その文化人類学的特質からして現行人類において最も社会主義的である日本人においては、前者は殆ど美徳とされない。「文明は西から東へと流れていく」というプリミティヴな言説も、あながち嘘ではない様である。勿論そこに目を付けているのは現代中国だが、環境に対する破壊者としての現代西欧文明は、東洋的なものへのパラダイムシフトを余儀無くされるだろう。これを人類の進化のアンチテーゼと捉えるのは早計だろう。それはnature less than matureにおける虚無主義性の具象化であり、(後にも先にも)根拠が無い。オルタナティヴな物事への対義で鑑みられたい。


(2024/1/20 20:36)




「優れている方が勝つ」という世界に生きている人々は、特定のルールを必要とする。彼らは、何らかのルールに則った世界でしか生きていけないのである。その意味で、「勝つ方が優れている」に決まっている。スポーツ競技におけるルール規定、ヤクザの人々の社会における流儀、ヒトの肉体という物理的枠組み…。「優れていた」かどうかを調べるには、型式が必要なのである(「存在の証明」)。逆に、「勝つであろう」対象としてそれを知るには、型式というものは邪魔なのである。いずれ「歴史が証明する」。

例えば、剣道三倍段というのは、俗説に過ぎない。というのは、ヒトにおける肉体の使い方という事において、柔道が剣道に比べて劣っている訳ではないという事である。柔術の類を参照すれば理解出来るという事もあるが、ヒトにはそれぞれそのヒトに合った体の使い方がある。決して、柔道と比して剣道の方が武具を仕様する分攻撃力に優れているという事ではない。その点では、柔道や剣道といった型式も(だから)「スポーツ」に過ぎない。


(2024/1/20 17:02)




当該の者がその(様な)行為に及ぶのは、彼に与えられている評定には因らない。ドイツ語のals obという言い方によって表わされるものは、彼に第一義的に(な)影響を与えるかもしれないが、それだけで彼にまつわる全て(の事)が立ち行く訳ではない。nature or matureではなくnature and matureが妥当するのは当然だが、nature more than matureなのかnature less than matureなのかという事はあるだろう。


(2024/1/18 17:42)
(2024/1/19 19:24)




バイデン米大統領が「白人優性思想は反社会的」みたいな事を仰っているが、確かに白人が無根拠に優れているというのは間違っているだろうが、現代における基本的な文明を作り出したのが白人やそれに類する思考を持った人々であることは間違いが無い。トルストイはこういった事に触れているが、他者への感謝の気持ちというものを忘れるべきではないだろう。文学的解釈によってはこれは彼へのアンチテーゼとなり得るかもしれないが、当該存在を為しているものは何かという事を我々は常に念頭に置かねばならない。


(2024/1/18 15:37)




ヒトには、基本的に、不確定要素を避ける傾向がある。そうでなければ、リスクプレミアムなどといった考え方自体が否定されてしまうであろう。自殺者は確実に存在する。ヒトは、進化すればする程、生を苦であると見做す様になるのではないか?つまり、リスクに対する選好は逓減の傾向にある。ヒトビトにおいては、進化が為されれば為される程、不確定要素が避けられバースコントロールが効く様になるのである。ヒトという種において、対象である客体における機会性が失われる臨界点というのがあるだろう。F.A.ハイエクは「隷属への道」と云ったが、生のパラダイムから死のパラダイムへとは云わぬまでも、一定の(その)シフトに従って、人々は集団への帰属を渇望する様になるだろう。


(2024/1/18 9:42)




ヒトについて、生命体としての知能に恵まれていても生物として愚かという事も、場合により言えてしまうという事もあるかもしれない。特定の時間内で問題を解決するという事において、勿論それに適応する程度の知的能力が必要となるだろう。課題の解決という事では、それについていけない頭の悪いヒトは是認されませんよという事だろう。ヒトの脳の機能には色々在るので、それらに応じて計られ得るステートがあるだろう。例えば、洞察力があっても、情報処理能力が著しく低いヒトが知的障害と見做される事はままあるだろう。それらヒトにおける種々の能力は、ゲームのキャラクターのステータスの様に総合的な強さがありそれに基づいて差し引きゼロという訳ではない。「スペシャリストタイプ」が、「ゼネラリストタイプ」に比べて、ヒトの社会において評価が一般的に低いのはこういった理由からだろう。


(2024/1/17 22:50)




ヒトは自由を与えられると、不自由を(社会的に)形作る。それには、自由に伴う責任がそれを為す場合と、そうではなくそれが為される場合とある。太古の昔、ヒトの形成する社会においては、それ自体が世界であると考えられていた。もし仮に、ヒトが万物の尺度であるならば、それ自体が責任を為すだろう。つまり、責任を伴わない自由であるかの様なものが、法を形作る。「法は社会の反映である」。生物としてのヒトは社会から生まれたものであり、自由に対して責任が先に来る。順法意識という発想もそこから生まれて来る。人々の社会欲が、人々の自己同一性におけるパラダイムシフトを(順次)為す。人々は、法の下の平等は保障されているが、法の下で平等である訳ではない。


(2024/1/17 0:26)




中国の王毅氏が、イスラエルとハマスの戦闘に関して即時停戦を主張しているが、同時に、パレスチナ問題はイスラエルとパレスチナの共存の下為されなければならないとも仰っている。しかし、それは達成されないであろう。過去、アメリカがその仲介の下双方に対する和平案を提示した事もあったが、パレスチナ側がそれを拒んだのである。パレスチナは基本的にパレスチナとハマスが別物であるとしながらも、そこで今回の暴挙である。つまり、和平を為そうとしているのはイスラエル側であり、パレスチナはハマスを自らの(領域の)ものとして認めねばならない。

イランは声明において言明している。「アメリカは、(現状では)双方の肩を持つことは出来ない。」、と。


(2024/1/16 8:48)




例えば「私が間違っておりました」というセリフに象徴されている様に、日本人の対人関係は、全人格肯定か全人格否定、つまりオールオアナッシングの世界のところのものである。日本人においては、内部的排斥が旨とされるものであり、外部的被排斥を旨とする人々の末裔が我々現代日本人である。現象的には、内部的被排斥と外部的排斥が我々のテーゼとなる。これは、我々が住まうところの地理的要因によって裏付けられている。

浦沢直樹氏作の漫画作品「MONSTER」における「終わりの風景」においては、この日本人的特質がものの見事に具象化されている。それは、第二次世界大戦中の日本人における全共闘的悲願が具現化されたところのものの様である。「我々の敵を被爆させろ」、と。しかし、それは勿論叶わなかった。むしろ、それは、摂理に従って二発の原爆投下を是認するものとなった。無様である。

…私は、ここで、ディアスポラを肯定してユダヤ民族排斥を訴えているのではない。


(2024/1/16 0:40)




ヒトの中には、自己以外の対象に対して、反発心のみをもってして対する者というのが居る様である。現在の中国は、国家概としてそれが希求されている気がある。女性四千人が参加した猥褻ショーがその中国で秘密裏に開催されたそうであるが、これが中国当局によって摘発されてしまった様である。

ヒトが性欲を溜め込めば一体(社会的に)どういった事になるか中国の指導部も充分分かり切っているはずである。特には現代において、国力増強の標語の下その様な事が行われる云われは皆無であるという事も彼らは分かっているはずである。

これでは、本当に中国はナチス化してしまう。自然体でヒトを辱める様な社会構成がどれだけおぞましいか、例えば旧日本軍の暴虐を知っている彼らならば、日本人の愚かしい部分を真似たくないという感慨の下、理解出来るはずである。現在のロシアを見よ。若い才覚は海の外へ流れ出ていく。日本の国土は海に囲われているが、中国はその様には「恵まれて」いない。


(2024/1/15 18:03)




現在の社会は、汎社会的に、技術進歩の度合とそれを破壊する例えば戦争の様な現象が混在している。人々が互いに高め合う様な社会というのは、勿論、実力主義的な社会(のそれ)である。…分裂していた方が全ては上手くいく。これは同時に統合でもあるだろう。

(心理的)制約について。これは、基本的に、行わない事を決めておけば良いという事なのだが、それで上手くいくという事においては私の性格や受けた教育等の心理的制約が関係している。とどのつまり、「自分自身である事をやめる」をやめないという制約を掛けておけば良いのだが、それには「自分自身である事をやめる」という事以外において主体性が(私自身から)失われるという事が前提となる。それで、自己認識も問題解決能力も全てクリアされ全ては上手くいく。


(2024/1/10 20:20)
(2024/1/14 18:17)




As for my fear of death in my childhood, the idol of the skull was symbolic. I may have been obsessed with various physical objects at the time. I liked certain objects and disliked certain objects. I remember that everything about myself seemed to spring up from the concrete objects. Here the concrete objects referred to are concrete things, concepts, and some objects as abstract objects, all of them. So it could be some kind of vision speculated by imagination extracted from the idol of the skull, some concrete things embodied from (the concept of) death, or memory related to the moment when a human being is killed on video work. Ironically, all of this comes from the future, and fear clouds our sense of judgment. Ironically, horrific tender tragedies and terrific sad comedies are "powers" for my insensitivity. My insensitivity is something on purpose. However, as far as I am insensitive, I am not aware "of it". I may be turning a blind eye to death. What does it mean to "think of death"? Death is not exterminated. The meaning of "History proves it." is ambiguous. Whether a person looks "big" or "small" is (attributed by) nothing more than a demonic delusion.

(子供の時分の、私の、死に対する恐怖については、髑髏の偶像が象徴的であった。私は、当時、物理的な物体種々に執着していたのかもしれない。ある物体を好み、ある物体を嫌い、自らにまつわる何もかもが具体的な何らかの客体から湧き上がってくる様であったと記憶している。ここで云う具体的な何らかの客体とは、具体的な物や概念そして抽象的な対象としての何らかの客体全ての事である。だから、髑髏の像から抽出されたイマジネーションに基づく何らかのヴィジョンや、死(の概念)から具象化された何らかの具体的な物体、そしてヒトが殺される瞬間の映像作品にまつわる記憶であったりした。皮肉にも、これら全ては未来から振り掛かってくるものであり、恐怖は判断力を鈍らせる。おぞましやかな優しい悲劇や悲しい喜劇は、私の鈍感さの皮肉にも「原動力」となっている。そう、私の鈍感さは故意のものなのである。しかし、鈍感である限りにおいて、私は、「気付いていない」。私は、死に対して、見て見ぬ振りをしているのかもしれない。「死を思う」とは如何なる事か…死に携わっているのだ。「歴史が証明する」の意味は多義的である。人が「大きく」見えるだとか「小さく」見えるだとか、それらは全て悪魔的にもたらされた幻妄に過ぎない。)


(2024/1/8 23:12)
(2024/1/9 17:39)




Basically, people can only explain to others to the extent that they can understand. However, the problem is different from it when the object is the self. (Actively) the act of understanding an object is one of the outlining of objectives. However, in association with that, people will be hit by a time-lag attack from an object as the target. Normally, people determine whether an object is based on "what they know." However, there is a question of "what is understood". At the inflection point, where the maximum self and the minimum self coincide, one would be going to know oneself.

(基本的に、人は、本人に理解出来る範囲の説明しか他者に対して出来ない。しかし、その対象が自己自身となると問題として別である。(能動的に)対象を理解するという行為は、目的概化の一つである。しかし、それにまつわって、対象からの時間差攻撃を食らう事になる。通常、我々は、「あるのわかり」に基づいて対象の如何について判別する。しかし、そこでは、「わかりのあり」の如何が問われる事になる。極大の自己と極小の自己が合致する、その変曲点において、人は自分自身を知る事になる。)


(2024/1/7 21:58)




Nowadays, for example, some Japanese people want to replace the existence of God with that of aliens. Surely, no matter what object it is in any phase beyond our recognition, it is not God, unless it exists as an object. "Because of it," they want to replace(with what?). It will probably be "nothing". The infinity of the raison d'être has been replaced by nominality.

(近日、例えば日本人の中には、神の存在を宇宙人のそれとすり替えたがる者も居る。確かに、それがどういった我々の手に負えないところの位相に存している客体であれ、対象として存している限りにおいてそのobjectは神ではない。「だから」、彼らはすり替えたがるのである。神ではない、何と?それは、おそらく、無であろう。レーゾンデートルの無限性が唯名性に置き換わっているのである。)


(2024/1/3 21:48)




Humans are not perfect. For those who think of something in words, the answer is not to verbalize their thoughts. It is an ability that is cultivated through education. However, it is done both in "being educated" and "educating". The growth of freedom by being educated should be compensated for by educating. Regardless of contents, education itself has something valuable(at least now). This is not a textualization of education. It is said that "the obligation to get an education" is replaced by "compulsory education." As well as the moment in which textualization is accomplished, antisociety or an antisocial nature appears. If a person knows the coming horrors of the battlefield, he or she knows that he or she should not make his or her life take itself.

(ヒトは完全ではない。言葉で考えている者にとって、思考を言語化するなというのが正解だろう。それは教育によって培われる能力である。只、「教育されること」でも「教育すること」でもそれは為される。被教育によって為される自由の伸びしろは、は教育によって埋め合わされるべきだろう。(少なくともここでは)、その内容にかかわらず、教育ということ自体に価値があるということである。これは、教育のテキスト化ではない。問題は、「教育を受ける義務」が「義務教育」にすり替わってしまっている事である。テキスト化が為された瞬間に、反社会性があらわれる。戦場のおぞましさを知っているものならば、生きる事を目的概化してはならないという事を知っているはずである。)


(2024/1/1 20:14)




When I was a child, I was afraid of the darkness of the night. It was reminiscent of the fear of impending death. Death is not scary now, but it was scary with riding on time. The only way to escape the vision of impending death was to become a future-perfect form of human beings. Death comes from the past. No, the past itself is "dead." Isn't death scary now? Because it is "dead", by itself it must be. "Death is not scary now." God punishes with blindness.

The reason why people are afraid of death is simply that they take what they have for granted. Life is a matter of course for them. Because they do not think of death, (so) they live in idle pleasure. As if they have assumed that their lifetime as an extension of their own self-identity will continue already, it is. As long as "To be or not to be, that is the problem.", they have "no problem." ...The unambiguity of living in the world of language is verified there, therefore a degenerated world is affirmed without any basis. ...Joseph Schumpeter has told such a conclusion already and it goes without saying that nihilism, as seen in the Nazis as a political party, led to the destruction of everything. In the case of being embodied, the thing is the same. People call it "antisocial."

(私は、子供の時分、夜の闇を恐れていた。迫り来る死の恐怖を連想させたからである。現在は死は恐ろしくないが、当時は死が恐ろしかった。迫り来る死の幻影から逃れるには、自身が未来完了形になるしか無かった。死は過去から迫って来るのである。否、過去自体が「死んでいる」のである。現在は死は恐ろしくない?「死んでいる」からであろう。「現在は死は恐ろしくない」。神は盲目をもって罰する。

ヒトが死を恐れるのは、単(ひとえ)に今あるものを当たり前だと思っているからだろう。生など、彼らにとっては、当たり前なのである。(だから)、彼らは、死を思っていない分、怠惰に生きる。何時までも、自らの自己同一性の延長線上のものとして、ライフタイムが続くと思い込んでしまっているかの様である。「生か死か、それが問題だ。」ということでは、彼らには「問題が無い」。…言語の世界に生きる事(で)の一義性が、そこでは是認されて(しまって)いる。それが故に、分裂した世界が、無根拠に肯定される。…ヨーゼフ・シュムペーターもそういった結論を語っていたが、政党としてのナチスで鑑みられた様なあの虚無主義が、全てを破滅へと導いた事は云うまでも無い。それが具有化もしくは具象化されていようが、事は同じである。人はそれを「反社会的」と呼ぶ。)


(2023/12/31 1:03)
(2023/12/31 18:23)
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
Shinpei Sugiura
性別:
男性

カテゴリー

最新記事

(04/13)
(04/10)
(04/08)
(04/03)
(04/02)

P R