「木村もりよ氏 尾身茂会長に憤慨「コロナで国民怖がらせるな」5類引き下げも「普通の病気ではない」というニュース報道に際して(西暦2023年5月7日記載)
尾身茂氏が「コロナ」を操作しているわけではないのだが?何か間違えてるんじゃないの?怖いからといっていくら吠えても現実は変わらないよ?
「「“第9波”と判断することが妥当」 新型コロナの感染状況 日本医師会」というニュース報道に際して(西暦2023年7月6日記載)
バカだよね。医師の先生達は最初からきちんと警鐘を鳴らしていた。私は外出の場合マスクをしないことはずっと無い。以前、なんとか「もりよ」とかいうのが、「コロナで国民怖がらせるな」とかホザいていたが、医師が「コロナ」を操作しているわけではない。何を間違えてんの?当該ウィルスによってこういう事になっていることの責任を「もりよ」は取り得るんだろうね?最初から医師の言う事に従っておけば良いのに、雑菌を付帯させてそこら辺をのたうちまわるゴキブリはサッサと死ね。
vaccinatingによって、それだけウィルスに対する抑制効果が働き、健常に近いヒトが増え、(日本)政府の発する非常事態宣言がキャンセルされる可能性は高くなる。にもかかわらず、vaccinationにアンチするヒトビトの総意として、非常事態宣言が解除されている状態でないと都合が悪いヒトたちの意見が採用されている。日本のマスコミは一体何を報道しているのか。どうやら日本のマスコミは、この忌避されるべき事態をそうではないと認識しろと国民に強制したい様である。例えば、飲食店経営者の非常事態宣言に対するアンチがunvaccinated代表という形で報道されていたりする。日本人特有の共感・共苦もここまでくれば猛毒である。……ウィルスは存在する。そして、それがまるで政府の大本営発表であるかのように取り扱うということは間違っている。服従か死か選ばないのであれば、公衆衛生の観点からして雑菌扱いされても仕方が無いであろう。
私は、ヒトの顔面というのは、造形・人相・表情の作りで成り立っていると考えている。表情の作りはともかくとして、造形が整っていても人相が悪く醜い顔をしたヒトというのは居る。逆に、造形があまり整ってはいないが人相が良くその顔が美しいと見做されるヒトも居る。その顔の、造形も整っておらず、人相も悪いが、表情の作りが上手く他者に好かれるヒトというのも居るだろう。中には、この三要素全てに恵まれていてとても良い顔であると云われるヒトも居るかもしれない。しかし、逆に、この三要素全てに恵まれておらず良い顔ではないとの評を下されざるを得ないヒトというのも居るだろう。
ところで、顔という題材を取り上げるとなると、それには様々な意味があり、少なくとも日本人ということになると顔ということについては二義的である。おそらく日本古来から続く本音と建前のフェノメノロジーが、共感や共苦といった、それこそ文化科学的な側面から考えるのであれば味噌や納豆といった食材に在るように(食べれば分かる)、極めて概念として当該的なtextに社会的に支配されながら、緩やかなグラデーションを描く。イギリス人は皮肉も理解するだろう、階級社会だからである。
「強さの厭世主義」はあるのかとニーチェは言ったがそんなものは無い、と、私は別所で書いたが、「弱さの厭世主義」と共に「辛さの厭世主義」というのはあるかもしれない。人間一般における(病衰を含む)老化ということも「辛さの厭世主義」においてあると言うことが出来るかもしれない。そして、それが変逸して「『強さの厭世主義』という勘違い」へと化けるということもあると言うことが出来るかもしれない。私はこれを書いている時点で42歳だが、フリードリッヒ・ニーチェは現在の私Shinpei Sugiura(杉浦真平)と同じくらいの歳で既に老人であっただろうが、老人における頑固さや頑迷さというのはおそらくそういうものだろうとは予想する。